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8月号「10年たって」の続編

8月号「10年たって」の続編
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 8月号の「10年たって」について 友人2人から感想と質問が寄せられました。
 1人は「今回の説明が一番わかりやすかった」です。
 おそらく 『資本論』Ⅱ巻21章3節三のマルクスの展開は一般論(資本制生産=拡大再生産が成り立つか否か)と具体的例解(Ⅰ部門の蓄積率を1/2mとする)が並記されていて、理解するのが大変なのですが 今回私は一般論だけに絞って説明したので 論理が脇道にそれることなく一本道だったので解りやすかったのかなと思いました。 
 つまり 21章3節三の冒頭は「だから、Ⅰ(v+m)とⅡcの交換ではさまざまな場合が生ずる」と一般論として問題提起しながら その後すぐ「蓄積にさいしては何よりもまず蓄積率が問題になる」と述べ 具体例としてのⅠ(v+1/2m)とⅡcとの比較>、=、<を検討・展開しています。そして 検討の後は再び「Ⅰ(v+m)がⅡcに等しいという…」と一般論に戻っています。問題は 一般論の「>、=、<」と具体例の「>、=、<」とは完全なイコールではないのです。具体例の「=」は Ⅰ(v+1/2m)=Ⅱcと1/2Ⅰmの拡大になっているので 一般論では「>」の場合にあてはまります。だから 具体例でもって一般論を導き出すこのマルクスの説明は 完全な論証にはなっていないのです。読者にとっては 具体的例解で一般論の論理を導き出すことが問われています。
 もう1人は 「拡大再生産表式の数値を入れた計算はどういう意味があるのか」と「『資本論』に『Ⅱにおける蓄積が、Ⅰにおけるよりも急速に行われなければならない』とあるのを 『急速に行われる』と言い換えているのはおかしいのでは」という質問です。
 前者については「再生産表式は貨幣を考慮しないで展開されています。だから 表式が成り立っていることは生産物が価値通りに交換されていることを意味します。言い換えれば 想定したⅠcやⅡcおよびⅠ・Ⅱそれぞれの有機的構成(cとvとの比)などから計算で導き出した数値は 価値法則が貫徹している場合の数値です。資本制生産は資本家によって運営されているので恣意的ですが その基準には価値法則=価値通りの交換があるのです。価値法則を理解する上でこの再生産表式の計算は重要です。もちろん結論部分では 貨幣の存在故に価値法則から乖離することを明らかにしています」と答えました。
 後者については 「マルクスは資本家を主語にしているので価値法則に引きずられるを『ねばならない』と表現したのですが 私は価値法則を主語にして展開したので『行われる』と述べたのです」と答えました。
 Ⅱ巻21章:拡大再生産の、それ故Ⅱ巻全体の結論は 価値通りの交換で拡大再生産を続けていると生産財が足りなくなって行き詰まる(逆に消費財は生産過剰に陥り、売れ残る)が 追加貨幣があれば生産を続行することが可能となる(消費財の売れ残りは解消せず、増加していく)。その生産続行の結果価値法則からの乖離がどんどん拡大していき 追加貨幣(貸付可能な貨幣資本)に対する需要が増大しすぎ、その量を超えたとき 行きすぎた反動としての恐慌が生じる というものです。この結論は 恐慌の必然性つまり資本制生産の限界を論証したものですが 同時に現象論としては貸付可能な貨幣資本の有無が問題であることを示唆しています。Ⅲ巻30~32章で論じているテーマです。言い換えたら Ⅱ巻21章を理解しない限りⅢ巻は正しく理解できないのです。これまでⅡ巻21章は「未完成」と言われてきたのですから Ⅱ巻・Ⅲ巻を正しく理解した人はこれまでいなかったことになります。だが 現在資本の主流になった貸付貨幣資本(利子生み資本)を理解・批判する核心を マルクスはⅢ巻5篇で展開しています。

 8月号で 私の理解は「コペルニクス的転換だ」と述べましたが 基本的な論点であと2つ 左翼のこれまでの理解は間違っていた、あるいは不十分だったことを明らかにしています。
 その1つは 先月号で簡単に触れた古代日本史です。
 日本の王朝は 紀元前数百年頃に南方から来た倭人が九州で弥生人を征服・支配して倭国が成立したが 663年白村江の戦いでその倭国は唐に敗北して崩壊し 3世紀に中国(江南=呉)および朝鮮(百済・新羅)から逃げてきて、倭国を恐れて息を殺しひっそりと生き延びていた諸王家の末裔が 日本国つまり大和朝廷を新たに立ち上げたのです。
 8世紀初めに作られた『古事記』『日本書紀』は 新たに日本国を作った支配者たちが自らの支配の正当性を言うために昔から日本にいたかのようなウソ話をデッチ上げた代物です。それは3世紀に日本に逃亡・侵入してからの400年間にわたる先祖の話を(それ以前を書くと出自がばれるので神話にした)、倭国の存在を抹消するために600年では足りなくて1200年も繰り上げ・間延びさせ 中国に知られていた倭国の事件を自分たちの歴史であるかのようにちりばめて 作り上げたフィクションにすぎません。
 左翼のほとんどは 『古事記』『日本書紀』は所詮神話なのだからウソがあって当たり前と、真実を明らかにすることを怠ってきました。その結果 日の丸・君が代や天皇制攻撃に対して批判し闘っていますが ウソだと思いながら、その説はデタラメだと真実を明らかにして批判することは全くできていません。これではこれらの攻撃に打ち勝つことはできないと思います。同時に 心の片隅で天皇制は弥生時代から続いていたかのように思い込まされているのではないかと疑われます(例えば『展望』18号須磨明論文は教科書問題としては良い論文ですが、「5世紀ごろの古代天皇制の時代…」と書かれています。5世紀には天皇はまだ存在しません)。それでは 民衆を天皇制イデオロギーの軛から解き放せないだけでなく 『共産党宣言』の冒頭に書かれている「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」というマルクスの思想・理論を否定していることになります。日本の先住民である縄文人や弥生人の原始共産主義的在り方から自然成長的に階級支配・階級対立が発生することなどありえないのです。世界史的に言えば 狩猟+採取民の一形態である遊牧民が農耕民を征服・支配して国家つまり階級支配・階級対立が発生したのです。日本では 倭人も含めすでに国家を知っていた人たちが移住・侵入してきて成立したのです。
 もう1つは 主体に関わる問題です。つまり 革命の主体は民衆であって党ではないということです。だから 未来社会つまり民衆が生産と社会の主人公になったときの民衆の組織形態は 職場の全員が運営に参加する生産協同組合が基本だということです。労働組合ではありません。労働組合は 資本(家)の存在を前提として、その中で労働者の権利(賃上げや労働条件の改善)を追い求めるための労働者の組織です。だから 資本主義が危機に陥り、革命が目前に迫ったときには 可能な職場から生産協同組合化を追及しつつ、生産協同組合形成の必要性を宣伝しなければなりません。労働組合に固持することは資本が生き延びることを願っているようなものです。言いかえたら 革命直前から革命後に続く民衆が主人公になっていく道が 生産協同組合による労働している人および生産の組織化です。だがこのことは忘れられてきたと思います。
 この誤りは マルクスが批判したように第二インターによって作られ(歪曲され)、レーニンによって確定させられたのです。実際 ロシア革命の過程で資本家が逃げ出したあるいは追放した職場では 工場委員会という名の生産協同組合が自然発生的に次々とおこってきましたが 政権に着いたレーニンは 戦時下の生産量を維持するために個人責任制を採用し、工場委員会を解散させていったのです。
 レーニンは 帝国主義戦争賛成に転じた第二インターを批判し、マルクスに依拠した革命の思想・理論を復権するために『国家と革命』と『帝国主義論』を著しました。そこでの客体つまり帝国主義(資本主義の現段階)および国家に対する分析・批判はまったく正しいと思いますが 主体に関しては実に不十分で 『国家と革命』の終わりの方で展開していますが 分配基準の第1段階から第2段階への転換という客体的提起だけで、主体そのものの組織形態についてはまったく述べていません。情勢の展開が急激だったため 第二インターの誤りの克服に着手しながらも中途半端に終わってしまったのだと思います。
 レーニンについていえば 模範としていた第二インター・ドイツ社会民主党のあまりの裏切り故に 革命を実現できる党を作らねばという強い思いが それ自身は正しいのですが、民衆ではなく党を革命の主体とする誤りに陥らせたのだと思います。そして その後の左翼は 革命を実現したという重さの前に (スターリン主義的)誤りも含めて、無批判的にレーニンを受け入れてきたと思います。
 現在 多くの党派・グループが小規模ながら資本(家)に依拠しないで自らが運営する事業体を立ち上げ、運営していますが その経営・運営は立ち上げた党派・グループのメンバーが独占し、党派・グループ以外の職員・従業員は経営・運営から排除され 職場の全員参加による生産協同組合的運営が展開されているという話はほとんど聞こえてきません。依然として レーニンが転換し切れていなかった部分の誤りにとらわれていると思います。

 以上3点を いろんな考え方があってもいいじゃんという話ではなく マルクスの理論の理解と日本における革命理論の根本に関わる問題として提起してきました。この土台部分が曖昧でも 日々の政治闘争は闘えますが そこで生まれている民衆の決起を革命に向かわせることはできないと思います。ソ連の崩壊と中国の変質故に「もはやマルクスの理論は古い」と革命を放棄した人は論外ですが 今だマルクスやレーニンを正しいと考えている人にとっては根本的問題だと思います。3点(①『資本論』Ⅱ巻21章3節三とⅢ巻の理解 ②天皇制の根幹でのウソ ③革命の主体は民衆)について明確な見解を示すことができない党派は 革命党としては失格だと思います。
 最近多くの党派・個人がいろいろこれまでの運動の総括を出していますが その総括はほとんど運動面だけであって、理論上の総括をしている文章は見受けられません。運動上の総括は あとからあれは間違っていたと反省しても、覆水盆に返らずで しないよりはした方が良いでしょうが 次世代の人にとってはほとんど意味がありません。誤りの思想的・理論的根拠をえぐり出してこそ 次世代の運動の教訓になると思います。
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