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「未来へのレジスタンス」について

「未来へのレジスタンス」について
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 革共同再建協の機関誌『展望』19号(17.2発行)に 関西地方委員会名の「未来へのレジスタンス」なる文章が掲載されています。この文章は 編集後記には「関西総会への地方委員会からの報告」と記されています。総会でも、また事前の(案)段階でも この報告に対する反対意見が次々と表明されました。この報告(の内容)は 総会では採決されていないので、個人の見解に過ぎず 個人名で掲載すべきものだと思います。その上で討論の素材としてこの報告を載せるのであれば 当然反対意見を併せて載せるべきです。一個人の見解をいかにも党の見解であるかのように押し出すやり方は 中央派(清水・安田派)と同じではないかと思います。
 私は 事前の(案)段階で「報告はプロレタリア革命を否定するものであり 同志が今も革命の実現を願っているというのであれば 自ら撤回すべきものである」と意見書を提出しました。報告が公表されたので 誤りを明らかにしたいと思います。

 報告者は「はじめに」(P17-)で 「私たちは今、時代の転換期に直面している。それは40年にわたる新自由主義グローバリゼーションからの転換である。それはまた第2次世界大戦後の世界を支配してきたアメリカの覇権の終焉を意味している。これから先、この転換期がどの様な形で進展していくのかを予測するのは容易ではない。しかし、いま世界の各地で沸き起こっているグローバリゼーションからの離脱を求める民衆の闘いを注視するならば、人びとが未来のために何をなすべきかを明らかにすることができるだろう。それは金融グローバリズムの自己破壊的なメカニズムから人間的な生存条件であるところの社会的共有財産(コモン)を人々の手に取り戻し、その基礎の上に社会(コミューン)を再構築するための闘争である。それは防衛的な闘争形態を取りながら、来るべき社会変革(コミュニズム)を準備する『未来のためのレジスタンス』である。」と報告の主旨を述べていますが ここにその根本的誤りが凝縮されていると思います。
 そもそも 資本(家)対賃労働(者)という資本制生産の生産関係の変革・止揚ぬきに未来社会(共産主義社会)はありうるのかということです。つまり 革命抜きに未来社会(コミューン)を語ることは かつてレーニンが批判した「超帝国主議論」そのものだということです。マルクスも『資本論』Ⅰ巻24章の結語で 資本は 集中と集積つまり吸収や合併・倒産などでその数は減少傾向があり、1つに向かっていると言えるが 資本が1つになった状態は資本間の競争がなくなり資本主義ではないので、必ず革命が起こる つまり「資本制的私有財産の葬鐘がなる。収奪者たちが収奪される」と展開しています。だから 資本制的生産関係の変革・止揚抜きの未来社会論は 超帝国主議論であり 好意的に捉えても福祉国家論に過ぎず 資本主義の擁護以外の何ものでもありません。
 確かに 民衆運動の領域では 革命の必要性を婉曲的に表現することはありうるかと思いますが 革命党の基本方針を討議すべき党員総会への提起であるのに 報告には「革命」という言葉は一切使われていません。これだけを見ても 革命を否定していると思われても仕方ありません。
 私は 『資本論』2巻3巻で展開しているマルクスの論理を掴まない限り、真のマルクス主義者・マルクス経済学者とは言えない つまり、歴史上最初の労働者国家であるパリコミューンを経験した「晩期マルクス」に依拠しない限りダメだと主張していますが 日本の新左翼のほとんどは 「後期マルクス」に依拠した客観主義の共産党に対抗して 主体性を強調する「初期マルクス」を重視してきました。それ故もあってか 報告者は Ⅰ巻24章の結語さえ否定しているのだから 『資本論』Ⅰ巻さえまともに読んだことがないのか、あるいはマルクスの理論そのものを捨て去りたいのかと思います。

 報告は 金融資本の破壊から「社会的共有財産(コモン)」を防衛する闘いを提起し 「社会的共有財産」を資本から取り戻す運動が いかにも共産主義(に向かう運動)であるかのように位置づけています。「財産」という言葉はブルジョアジーの概念ですが、それはさておき 守るべき社会的共有財産として「地域の商店や商店街。中小・零細な企業を中心とする地場産業。農村や山村、漁村。そこで生活を営む人びとによって維持されてきた自然環境。また地域の経済活動を支えてきた協同組合組織。医療機関、公共交通、学校・公教育。コミュニティにとって不可欠な公共施設、文化施設や文化団体。そして地域住民と直結した地方公共団体。さらには労働法制やさまざまな社会保障制度である。」(P36-)と実に雑多で多岐に渡っています。
 これらは本当に「社会的共有財産(コモン)」と規定できるものだろうか。確かに自然や土地(地球・大気)は社会的共有物(財産ではない。だからこれらは本来所有権はなく、使用権・占有権のみ)と言えますが 更に言えば、言語や知識も社会的共有物ですが 他のものは 人間が生産=労働で創り出したものであるから それを創り出した生産=労働者に所有権が生じます。この関係は 奴隷制をのぞき基本的には太古の原始共産制から封建時代まで続いています。だから 社会的共有論は 人間本来の生産=労働者自身の所有や共有とはまったく別物です。なお 資本主義では生産と労働との分裂が生じるが故に 生産物はそれを作った労働者ではなく生産者(資本家)の所有物とされます。
 そもそも問題は 「社会的共有財産」論は正しいのかです。ソ連スターリン主義は 社会的共有つまり国家または地域的共有といって 官僚主義国家・社会をつくりあげました。生産手段を使用している当人たちの生産手段の共有(生産協同組合)を社会的共有論で否定したのではありませんか。「社会的共有財産」論では 共産主義社会には絶対向かいません。それは 国家資本主義の一形態であり、スターリン主義の自己正当化の口実にすぎません。生産手段を資本(家)の所有からそこで働く人たちの共同所有に転化したときに(生産協同組合化) はじめて社会は共産主義に向かって歩み始めるのです。この核心点がなければ つまり、資本主義の生産関係の変革(および変革後の形態)が基軸に座っていなければ それはエセ学者たちの単なる夢物語にすぎません。だが報告には「革命」という言葉とともに この生産関係の変革は一言も述べられていません。つまり 未来社会に向かうためのこの核心点を否定したいから「社会的共有財産」論を展開しているのだと思われます。
 ここで「疑問」(この論理自身の矛盾)が生じます。お金(通貨)は社会的共有財産ではないのかです。お金は「天下の廻りもの」と言われるように 社会的であり共有物であり、かつ財産です。どうしてお金を社会的共有財産に含めていないのかです。自らの所有物だからといって、お金を昔のように壷にいれて床下に埋めていたのでは お金としての意味はありません。お金は使う(他人に譲渡)ことでお金になるのであり 社会的共有物そのものです。金融資本(銀行等)から彼らが持つすべてのお金を取り戻したら、共産主義社会に向かって行くと思われるので(パリコミューンの時、銀行を接取しないでベルサイユに逃げるのを許したことは間違いだったと総括されています) なぜ報告者がお金をとり戻すべき社会的共有財産と規定しないのか実に不思議です。おそらく発想は逆で 社会的共有財産として民衆が金融資本(銀行等)からお金を取り戻すことは、即革命につながるので お金を社会的共有財産の範疇に入れなかったのだと思われます。これでは 民衆の闘いが革命に向かうのを阻止するための詐欺師の論理か観念論の類です。

 報告は 現下の階級関係をすべて 金融資本のグローバリズム・新自由主義と反グローバリズム運動との対立で展開していますが 反グローバリズム運動にイギリスのEUからの離脱やアメリカのトランプ当選までも入れているのですから(終わりの方ではトランプの差別・排外主義と闘わねばならないと書かれていますが) これほど階級関係を隠敝する(混乱させる)デタラメな分析はありません。ファシズム的あり方と革命的あり方の区別さえ忘れてしまったように見えます。(1月号の「2極か3極か」で述べたので 詳論は省略します。)
 また 「革命」の代わりに「レジスタンス」という言葉を多用していますが レジスタンス=抵抗と革命は根本的に異なります。レジスタンス=抵抗には 資本(家)のあくどさに対する拒否はあっても 資本(家)の打倒はありません。つまり 資本主義が永遠に続くことを想定している言葉です。民衆運動のアジテーションとして使うことはありえても 革命党の基本方針で使う言葉ではありません。

 報告は ネグリやハートの見解を参考にしているように思いますが 彼らは社会学者であって、経済学者ではありません。経済学が資本制生産とその動向を分析する学問であるのに対し 社会学は社会現象を恣意的な対立軸を設定して分析しようとするもので 一見社会を説明しているように見えますが 現象論であって、根本的・本質的対立は隠蔽されていると思います。例えば「1%と99%」という言葉がはやっていましたが 持てるもの(大富豪)と持たざるもの(民衆)との対立を表現する言葉として使われていて、アジテーションなどで使うには便利な言葉ですが 99%には大資本家をのぞくすべての階級・階層を含んでいるため 対立する意見があっても「多様性の承認」のもとに意見の対立は隠蔽されてしまいます。マルクスは150年も前にイギリスは金利生活者国家になっていると批判し またレーニンは帝国主義になるとその寄生性と腐朽性の現れとして、労働者階級が分裂すること(労働貴族の発生)を指摘しています。脱原発政策をめぐる新潟県知事選での連合や民進党の対応はつい昨日の話です。この論理では 持たざるものが99%もいるのに、選挙ではなぜ99%の代表が勝てないのかの説明はまったくできません。
 マルクスは『経済学批判』の「序言」で 唯物史観を定式化しています。
   … 市民社会の解剖は経済学のうちに求められなければならないという
  こと、これが私の到達した結果だったのである。…… 私の研究のために
  導きの糸として役立ったところの、一般的な結論は、…次のように定式化
  することのできるものである。人間は、自分たちの生活の社会的生産にお
  いて、一定の、必然的な、彼らの意思からは独立した諸関係のなかにはい
  る。すなわち、もろもろの生産関係にはいるのであって、これらの関係は
  人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応するものである。これらの
  生産関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的な基礎で
  あって、この基礎の上に1つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、
  またこの基礎に対応してもろもろの一定の社会的な意識形態があるのであ
  る。物質的生活の生産様式は、社会的な、政治的な、そして精神的な生活
  過程一般の条件となる。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、
  反対に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質
  的生産諸力は、その発展のある段階に達すると、これまでそれらがその内
  部で運動してきたところの既存の生産関係と、または所有関係―これは生
  産関係の1つの法律的表現でしかないのであるが―と、矛盾するようにな
  る。これらの関係は、生産諸力の発展形態から一変して生産諸力の手かせ
  足かせとなる。そうなると、そこで1つの社会革命の時期が始まる。… 
  このような諸変革を考察するにあたっては、人々はいつでも、経済的生産
  条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、人間がこ
  の衝突を意識しこの衝突に決着をつける場面である法律的な、政治的な、
  宗教的な、芸術的または哲学的な、簡単に言えばイデオロギー的な諸形態
  とを、区別しなければならない。… このような変革の時代を、その時代
  の意識から判断することはできない。そうするよりも、むしろ、この意識
  を、物質的生活の諸矛盾から、また現に社会的生産諸力と社会的生産関係
  とのあいだに存在する衝突から、説明しなければならない。
  (…以下省略…)
 マルクスは「市民社会の解剖は経済学のうちに求められなければならない」と述べ この唯物史観の定式が「研究のための導きの糸」であると述べています。だから経済学を捨て、社会学で世界の動向を云々することは観念論への転落であり、間違っていると思います。
 次いで 物質的生産のあり方(下部構造)が実在的な基礎であって この基礎の上に法律的・政治的上部構造がそびえ立ち、またこの基礎に対応して一定の社会的な意識形態があると展開しています。つまり下部構造と上部構造とを区別し 下部構造は「自然科学的に正確に」分析し 上部構造・イデオロギーはその下部構造の反映だと指摘しています。もちろん 反映だからと言っても皆が同じではなく 賛成・是認から反対・否定まで、その反映はいろいろあることを押さえていますが。
 つまり 下部構造(物質的生産過程)を経済学で分析しない限り その説は観念論に過ぎないということです。
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