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労農同盟について

労農同盟について
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 先月号で、マルクスの「唯物史観の定式」の前半を抜粋しましたが 先月号のテーマではそれで十分なのですが マルクスの理論が正しいと思っている私にとっては 前半だけの紹介ではなんとなく中途半端さを感じるので 後半を抜粋します。
   一つの社会構成は、そのなかで発展することのできるすべての生産諸力がすっかり  発展してしまうまでは、けっして滅び去るものではない。そして、新しい、いっそう  高度な生産関係は、それらの物質的な存在条件が古い社会そのもののふところの中で  すっかり孵化されてしまうまでは、けっして古い生産関係にとって代わりはしない。  それだから、人間は、いつでも、ただ自分で解決することのできる課題だけを自分に  たいして提起するのである。… 大づかみに言えば、アジア的生産様式、古代的生産  様式[ギリシャ・ローマの奴隷制]、封建的生産様式、および近代ブルジョア的生産  様式を、経済的社会構成の次々に出現する諸時期としてあげることができる。ブルジ  ョア的生産関係は、社会的生産過程の最後の敵対的な形態である。敵対的というのは、  個人的な敵対という意味で言うのではなく、多くの個人の社会的な生活条件のなかか  ら生まれてくる敵対という意味で言うのである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発  展しつつある生産諸力は、同時に、この敵対関係を解決するための物質的な諸条件を  もつくりだしつつあるのである。したがって、この社会構成を最後として、人間社会  の前史は終わるのである。
 以上が 先月号で「以下省略」とした部分です。前半の終わりの方から後半には きたるべき未来社会に向かってのプロレタリア革命についての視点などが展開されていると思います。この唯物史観の定式は 段落区切りが1つもない実に長い一文です。
 私が運動を始めた時 先輩から この唯物史観の定式はマルクス主義的、あるいは唯物論的に社会をどう捉えるかの「導きの糸だから丸暗記せよ」と言われました。新しい問題に出くわした時にはここから考えよという訳です。私は 大学2年生の6月からデモに参加し、7月に中核派に加盟しましたが 加盟するまで、中核派の綱領、路線・方針はもちろんのこと中核派という名称さえ知りませんでした。しかも2ヶ月後の9月はじめには 2年生ということで大学支部キャップを先輩から押しつけられました(当時学生運動は教養部が軸だったので)。それ以降 問題にぶつかったときにはここから考えるのだとしてきました。皆で一緒に行うデモなどの闘争方針はともかく 考え方では「中央が言っているから正しい」とはしてこなかったので いまの自分があるのだと思います。
 このマルクスの文章は「唯物史観の定式」と呼ばれています。だから 当然、この前提には 唯物論に立つのか、観念論に依拠するのかの選択が問われています。最近 なぜ新左翼は民衆の支持を失ったのかと いろいろな総括や意見・見解が述べられていますが 資本主義の資本(家)対賃労働(者)という生産関係の変革がその論理の核心にすわっている文章には ほとんど出会いません。私は その視点を欠落させている見解は 観念論だと思っています。その人たちは 自らが唯物論から観念論に立場移行していることに無自覚なように見受けられます。

 『未来』3月2日号に 高見君が 書評「サバルタンは語る」を書いています。「レーニン主義を乗り越える共産主議論はないのかということが この数年来の私の関心事でした。7.7自己批判をマルクス主義の言葉化するという問題意識です。結論から言うと有ったのです。グラムシの思想です。」と 自身の問題意識を述べています。高見君は 障がい者解放だけでなく このグラムシ評価もそうですが、実にいろいろなテーマで執筆されていて よく勉強しているなと感心しています。
 私はグラムシを読んだことがないので、グラムシ自身の評論はできませんが 高見君が書いている「革共同再建協議会はいまだにレーニン主義を否定していませんから、その路線は労農同盟に基づくプロレタリア独裁なのでしょう。これは農民はプロレタリアに指導されないと革命的にはなれないという立場ではないでしょうか。」という説には 革命つまり階級関係の転換を問題にする本質論と、(民衆)運動の主体を論じる現実論(現象論)とを区別されていないように思え 少し違うなと感じました。また 資本(家)を打倒・追放するのは賃労働者自身であるが、国家権力を打倒するのはすべての民衆だという区別(違い)も はっきりしてないのではと思いました。
 私は マルクス主義学生同盟に加盟したのだから マルクス主義者にならねばならないとは思っていましたが レーニン主義者にならねばと考えたことはありません。本多延嘉さんが『レーニン主義の継承か解体か』を書いて以降 レーニン主義という言葉が当時若い人たちの間ではやっていたのは知っていましたが。
 私は レーニンの評価については2面性があると思います。第二インターの転向に対して革命が実現できる党を創り、ロシア革命を実現したことは賞賛されるべきことですが 革命の主体を労働者・民衆ではなく党にすえたことは これまでのソ連社会の否定的現実(官僚制国家・社会)を創り出した根本的原因だと見ています。つまりレーニンは 革命は労働者階級・民衆が実現すべき課題であるのに その労働者階級・民衆の未来社会に向かっての在り方=組織形態を提示できなかっただけでなく 17年の革命過程で自然発生的に生まれていたその形態である生産協同組合を 内戦下の生産を維持するために否定していったということです。マルクスは パリコミューンのとき 女性同志をパリに送り、製縫の生産協同組合を創ることを指示しています。この違いです。また レーニンが『国家と革命』で示した共産主義社会論は 共産主義社会の発展を第1段階と第2段階とに区別していますが(それ自身は正しいと思いますが) 生産力の違いという客体条件だけで、主体の組織形態については一言も論じていません。
 私たちは 70年闘争を それまで組織してきた青年労働者を学生部隊と共に投入することで爆発・勝利させたと思いますが それ以降、結果として権力の打倒だけが課題となり 対カクマル戦もあって、労働者をそれとして組織化することはほとんど忘れていたと思います。まさしくレーニン主義的になっていたのです。

 高見君が批判している「農民はプロレタリアに指導されないと革命的にはなれない」論について 考えてみたいと思います。この見解は 中央派(清水・安田派)の91年以降の主張です。
 来るべき未来社会に向かう革命は 本質論的には 先に見たように 資本制生産の賃労働対資本という生産関係を破棄・否定する革命であり それは賃労働者にしか実行できないので プロレタリア革命と規定されます。賃労働者が 資本家を打倒・追放して生産手段を共有化し、生産の主人公になるための革命だということです。だが 闘いとった社会は 革命によって賃労働自身のあり方が否定・止揚されるので プロレタリア的社会ではなく共産主義社会です。賃労働者は労働=生産者になるので 労働者の規定そのものが変わります。この移行・転換の論理がポイントだと思います。
 自作農は農地を自ら「所有」し生産していますが 小作農は地主から借りた農地を耕し小作料を払っています。だから 資本(家)を追い出し、生産手段をそこで働く労働者の共有物に転化する闘いは 小作農の地主を追い出し、農地を自らのものにする闘いと 同じものです。つまり 小作農が農民の大半を占めていた当時のロシアにおいては 自らの生産手段の奪取という同じ目的を掲げる労働者と農民の同盟論は 権力の打倒のみならず、共産主義に向かう闘いにおいても正しかったと思います。
 だが 自作農が大半を占めるところで労農同盟を唱える場合 自らの生産手段の奪取が実現できていない方は 自作農ではなく、賃労働者だということです。論理的に言えば 生産協同組合化に着手・実現できていない労働者が 自らの存在形態に合わせて農民を指導したとしたら 私有財産の破棄、つまり生産手段である農地の「所有」を放棄しろという指導になってしまいます。存在論的(本質・階級)規定から、現実の賃労働者が革命的だとするのは間違っています。だから 高見君の批判はまったく正しいと思います。
 だが 労働者が農民を指導することは100%間違いだとしてしまうと 未来に向かう革命はプロレタリア革命だという本質規定と矛盾するのではと思います。実は 労働者が農民を「指導」する中身は 生産手段の奪取ではなく、共産主義的在り方なのです。生産手段を奪取しようという点では労働者、農民同じですが 奪取直後の生産=労働形態は もと労働者は共同所有・協働労働ですが、農民は個人(家族)所有・個別労働です。個別労働よりも協働労働の方が 労働生産性ははるかに高いです。レーニンが示したように 欲望に応じての分配が可能になる共産主義の高次段階に向かうためには 生産性の高度化が必要です。農民を個別から協働に転換・飛躍させるためには 労働=生産者になった元労働者が自らの実践と援助で方向性(あり方)を示すことが必要なのです。それは 命令や教育でできるものではなく 農業においても協働労働の方が個別労働よりも生産性が高い、つまり労働時間が短縮できることを 実際に指し示すことだと思います。
 生産協同組合化を労働者が実際に実現・着手していたら 手本を示しているということで 農民を「指導」していると言えなくもありませんが 労働者あるいは党自身が生産協同組合化を否定しながら農民に農業の集団化を強制することは 農民の自己解放の闘いに対する抑圧以外のなにものでもありません。生産協同組合化で 労働者は共有ではありますが、生産手段の所有者になるのです。自作農が自らの生産手段である農地を「所有」しているのと同じになります。違いは 個別か集団かの違いに過ぎません。
 見える形で指し示せなければ 革命で農地を自らの物にした農民は 細分化された自らの農地にしがみつき 生産量を増やすために必死に働かざるをえなくなるでしょう。この状態で農地の共有化をうち出せば 農民は自らの生産手段である農地が奪われると感じるということです。まさしく スターリンが農業集団化のために反対する農民を大虐殺していった歴史が 繰り返されるということです。
  
 まとめれば 革命に向かう闘いは 国家権力を打倒し、自己権力を打ち立てる闘いと 資本(家)を打倒・追放し資本制的生産関係を破棄・止揚し、共産主義の実現に向かっていく闘いの2面があります。前者は すべての民衆が 自らのテーマで、自らの解放をかけて闘いながら、権力打倒へと向かっていく闘いですが 後者は プロレタリアート自身が闘わないかぎり実現できない闘いです。だからマルクスは 賃労働者を「墓堀人」と言ったのです。そして 両方の闘いがまき起こったとき はじめて革命は成功するのです。プロレタリアートが農民や他の階級・階層に対して指導というか手本を示さなければならないのは 後者です。前者は それぞれの民衆が自己決起し、自己決定権の確立・行使へと向かう闘いであって 他の階級が指導できるというものではなく 逆に当該の闘いの必要性・正当性を学び理解し、そして連帯していくものだと思います。
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