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的場昭弘『「革命」再考』を読んで

的場昭弘『「革命」再考』を読んで
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 的場昭弘著『「革命」再考―資本主義後の世界を想う』(角川新書 840円 2017.1発行)が本屋で目に入ったので 買って読みました。著者は 『超訳「資本論」』や『マルクスだったらこう考える』などマルクスの理論、特に『資本論』について多くの著書があるマルクス経済学者なので しかもいま時はやらない(?!)「革命」についてであり オッ、何を書いているのだろうかと興味を持ちました。久しぶりに 現実の運動を離れて、革命そのものを考えさせる著作であり 皆様が読まれることをお薦めします。
 構成は 最初にひとこと はじめに 序章:革命とは何か 第1章:20世紀革命論の母 第2章:現実肯定主義からの革命批判 第3章:新しい暴力、無政府運動 第4章:革命と反革命 第5章:新自由主義と結合した「革命」 終章:人間の新しい可能性を示す おわりに です。

 はじめにで 現在の世界動向に対する認識と本書のテーマ「革命とは何か=資本主義後の問題」を述べています。
 「世界に目をやっても、それぞれの国で、国家への回帰現象が起きているのです。…この現象は、リーマンショック以後の経済の停滞にあります。経済はどん底になり、巷に失業者が溢れ、国家の赤字から年金は減り、福祉は悪化した。人々は外国嫌いになり、せめて自国と自国民だけ助かればいいというエゴイズムに陥ったわけです。」
 「資本主義経済は、きわめてきびしい過剰資本と過剰蓄積の状態にあり、ひょっとすると資本主義は、歴史的にある役割を終えつつあるのではないかという気さえします。」「今資本主義はゆらぎ始めていて、新しいなにかが生まれ出ようとしているのかもしれない。」「今ほど資本主義後の世界の将来について考えねばならないときはないのです。」と。

 序章では 北アフリカのジャスミン革命やチェコスロバキアのヴィロード革命、香港のパラソル革命などと革命という言葉がはやっていますが、それらは現政権を打倒する闘いであって 革命と規定するためには、政治革命とともに社会革命(生産関係の変革)も必要であり 革命と呼べるものはフランス革命、パリコミューン、ロシア革命の3つしかないと述べ その3つの革命を分析して未来の革命を考えたいとしています。確かに 革命と呼べるものはこの3つしかないと思います。
 次に 基本的人権を唱うブルジョア革命(社会)に対する批判視点を提起しています。
 「ソ連型社会主義の失敗は、人々の革命への視線を体制変革から、自己解放、個人の解放という方向へ変えます。」「フランス革命の人権は、私的所有を前提としていました。自由、平等、博愛は私的所有が確保されてから成立するわけです。だからもし私的所有が不安定ならば、基本的人権は保障されえない。生きる権利を奪われるからです。しかし、あるものの私的所有が他のものの私的所有を阻止しているならば、他のものは永遠に私的所有にありつけない。それこそフランス革命の盲点であったことは間違いありません。」
 「先進国の労働者…は自らの職場を守るべく、自らの人権を要求し、自らの人権を守るために、人権を踏みにじる世界をつくりあげようとします。人権と私的所有制度のもたらす根源的矛盾です。」と。
 ただ この章の最後に「私がこれから語る革命とは、私たちが生きている時代に実現できるようなものではないかもしれません。ずっと遠い未来のことかもしれません。その意味を知るために、資本主義という歴史を詳細に知らねばなりません。そして、それを超える新しい世界をそこからくみ取らねばなりません。」と述べていますが 後半はそうですが、前半には少しひっかかりました。私が運動を始めたのは60年安保闘争後の運動の停滞期で その頃は遠い将来の話として革命を語っていましたが 68年以降は目が黒いうちに革命を実現しようが合言葉だったと思います。確かに70年代中頃以降、資本の基軸が産業資本(生産と流通)から(貸付)貨幣資本に移ることで、革命情勢は遠のきましたが 目が黒いうちに革命を実現しようは基本だと思います。しかも筆者が述べるように いま再び資本主義の「発展」は行き詰まり、革命情勢が到来しつつあるのですから。

 第1章と第2章は フランス革命を対象にして 序章の論点をより詳しく展開していますが 紹介は省略します。
 第1章の結論として 「[フランス革命後の]ロベスピエールのような…独裁者の出現を阻止するには、国家、公的権利を、利己的なばらばらな個人にまかせてはいけないということになります。実際は政治に関心を持たないことで、市民は国家の単なる一部にならざるをえないわけです。ではどうしてそこから飛び出すか、それには利己的個人を飛び越え、類的人間にならねばならないわけです。」「社会的解放とは、利己的にばらばらになった個人をもう一度類的人間としてまとめ上げること。…私的所有といった排他的世界を捨て、集団的所有という世界へいたることです…。」と述べています。
 第2章で 「マルクスは…私有財産の自由がもたらす弊害が、政治への無関心、公的領域への無関心をつくりだすと考えます。」と指摘しています。いま世論調査によれば、高齢者と若者の間で安倍の支持率が高いそうですが その根拠はこのあたり、つまり個人の生活・経済だけ(高齢者は株価、若者は就職)に関心があるということかと思います。

 第3章は 1871年の最初の労働者権力であったパリコミューンを扱っています。
 「パリコミューンは、こうした中央集権に対する革命であったといっていいかもしれません。フランス大革命が中央集権の為政者を絶対王政からブルジョワ階級に変えたものであるとすれば、パリコミューンは中央集権そのものへのマニフェストだったといえます。問題になっているのは、中央集権の権力そのもの、国家の権威そのもの、都市のブルジョア階級そのものであり、抗議をしているのは…」と簡潔にスケッチして 
 「私有財産を守るための中央集権的な国家制度による法的規制がまさにそれで、私有財産が正当化されることで暴力が暴力と見えない構造になっています。しかし、これは暴力である。かつての封建制は、身分制度による暴力でしたが、人間は生まれながら身分が決められているという発想のもと、それが暴力に見えなかったのです。ブルジョワ的制度は、そうした身分制度を新しい暴力によって破壊しました。すなわち人間は機会が平等であることで、私有財産の相異以外、差別するものはなくなったのです。それでは次に社会はどうしたらいいか。私有制度のもつ暴力を新しい暴力、下からの抵抗の暴力によって破壊するしかないわけです。」
と下からの革命、それも暴力としての革命の必要性を指摘しています。

 第4章は 1917年のロシア革命を扱っています。
 第1章、第3章をうけ「フランス革命は民衆の革命が無政府状態をつくりあげ、結局ロベスピエールの独裁を生み出しました。革命は、民衆の支持がない場合には恐怖政治になることがそこから理解できます。一方パリコミューンは、民衆の支持は受けていたのですが、中央権力への対処をどうするかに問題がありました。…権力を奪取した民主勢力が恐怖政治をつくりださないようにするためには、評議会(ソヴィエト)をたくさんつくり、権力が集中できないように分権化する必要があります。」と政治面での基本視点を述べ
 「資本主義社会の法的制度の枠内で権力をとるというだけなら、議会選挙で勝てばいいわけです。…これは政治的に権力を奪取しただけであり、資本主義制度そのものに手をつけ始めると、途端に徹底した攻撃にあい、政権はすぐに崩壊します。…資本主義制度を崩壊させるには、…経済的土台を揺り動かさねばならないはずです。」と 革命の基本は生産関係の変革であることを明らかにしています。学生の頃、平和(議会)革命論を唱える人との論争で 南米の各国で選挙で左翼政権ができると、必ず米CIAに指導された軍部がクーデターを起こして転覆した例をあげて説明していたのを思いだしました。
 そして トロツキー(『裏切られた革命』)に依拠して 革命後のソ連社会を批判していきます。トロツキーの言葉「旧権力を転覆することと、権力を掌握することとは別問題である。」を紹介して 論点を鮮明にしています。
 私たち中核派は 結党以来「反帝国主義反スターリン主義」を掲げ、ソ連は共産主義社会ではなくスターリン主義国家だと主張してきたので 具体的な指摘は省略します。
 筆者は ネップによる「農村への譲歩が小ブルジョワ層の勢いに油をさし、それが官僚層の力となってきた。」「スターリンによるソ連の反革命は成立した。スターリンはロベスピエールのように人々の革命に対する熱き感情が失せ、小市民的になったとき、…突然独裁者として出現することになります。スターリンと官僚のコンビがロシア革命からテルミドールの反動を生みだしたというのです。」と述べていますが 基本線はそうだと思います。私たち以外にスターリン主義を反革命と言う人が現れたのかと驚きました。
 この章の最後に「スターリン主義とマルクス主義は同じではない」とまとめて ベンサイドの言葉「どれほど多くのかつての熱心なスターリニストが、スターリニズムと共産主義とを区別することができずに、スターリニストであることをやめた時に共産主義者であることもやめ、転向者の熱心さをもって自由の大義に加わっていることだろうか?」を紹介しています。ソ連崩壊後、世界中で起こっている状況そのものです。だから現在 どれだけ自らのスターリン主義的発想・偏向を払拭できているかが 言い替えればマルクス主義・共産主義を正しく理解しようとしているかが 問われているのです。

 ここで気になった点を2点。
 この章の途中で 筆者は「資本家たちは次第に競争して少数になっていく、こうして最終的には各部門1社しかないという状態になっていきます。もはや企業は独占を生かして国家機構を自分の思うように使うようになってきます。それに乗じて官僚も資本家と同様に国をむさぼるようになる。これが国家独占資本主義の実態です。」と書いていますが 前半「1社しかない」は 『資本論』Ⅰ巻24章の結語からいえる言葉ですが マルクスは 資本主義には終わりがあるという論証として展開しているのであって 国家独占資本主義の説明のためではありません。独占資本主義は 各部門が1社にならなくても数社で占められるようになったときに成立します。1社と数社(2~)とで論理は異なります。
 もう一つは 革命とは政治革命と社会革命の2つの面があると述べながら 社会革命つまり生産関係の変革および未来の生産様式を一言も展開していないことです。この欠落はマルクス経済学者としては信じられない話です。私は これまで それはその職場で働く全員が参加する生産協同組合だと繰り返し主張してきました。そして マルクスはパリコミューンの時、女性同志をパリに送り縫製の生産協同組合を作らせましたが レーニンは権力確立後、生産量を維持するために革命の過程で自然発生的に成立した生産協同組合(工場委員会)を個人請負制に替えていったのです。つまり生産協同組合の否定です。官僚が復活する根拠は 農村への妥協ではなく、実はここにあるのです。さきに 筆者の言葉「評議会(ソヴィエト)をたくさんつくり、権力が集中できないように分権化する必要があります。」を紹介しましたが それでは不十分なのです。生産場面での共産主義が実現されていかない限り 社会全体が共産主義に向かうことは不可能だと思います。そして 働く人々が自らの職場で生産と運営の主人公になることによって 革命後に民衆の中に政治的無関心が生じるのを防げるのです。

 第5章は ロシア革命後から現在を対象としています。しかし 革命と言えるものがなかったので ソ連への批判が強いフランスを中心とする西欧マルクス主義での論争を対象にしています。私は そのあたりの勉強はまったくしていないので評論できませんが 西欧マルクス主義はマルクス主義ではなく社会民主主義だと見ています。
 筆者は「20世紀前半が革命の時代ならば、後半はそれに対する反動の時代だといってもいいかもしれません。革命がある意味初々しさを失い、理想や希望を失い、たんなる社会主義対資本主義という権力の対立構造になったときに、不幸は訪れます。スターリン体制、東欧、中国の社会主義はほぼ革命精神を失い、革命という美名のなかで、官僚支配と共産党権力支配の世界となり、息苦しい世界に変貌していったわけです。」「本来は民衆の意思が展開するような下からの力があり、それを共産主義者が組織するというのがマルクスの考えた革命でした。しかし、実際には一部の共産主義者の権力掌握と独裁を生み出してしまったのです。」と 20世紀後半の社会主義・スターリン主義を批判し 現在の運動に入っていきます。
 現在の世界・資本主義を「中央と半周辺、周辺という構造」で説明し ネグリの帝国論は世界のグローバル化が進んでいた時には「説得力をもっていた」が 「リーマンショックによって世界はグローバル化を一時退け、一方で国家主義の台頭を引き起こしてい」るから もはや当たらないと述べ 「革命運動は衰退し、国際的運動はオルターナティブ、すなわち資本主義ではないグローバルな社会を求める運動へと収斂していきます。」「運動は多彩であり、もはやマルクス主義的な資本主義批判というよりは、多様な運動の集合体といった運動が主流となり、グローバルな資本主義批判として、資本の横暴へ足かせをかけるという方向へと流れが進みます。」と 現在の運動の傾向を暗に批判しています。
 そして 2011年のチュニジア、リビア、エジプトの独裁政権崩壊について 「革命という言葉が躍りました」が「本当に革命であったのでしょうか。それとも新自由主義による市場解放だったのでしょうか。」と論点整理し 「経済的な流れから言えば、グローバリゼーションに開発独裁国が飲み込まれた、といった方が真実であると思われます。」と結論付けています。「国家権力に対する個人の自由を求めるだけのものであるとすれば、いつのまにかそれは新自由主義と合流する可能性を秘めてい」るという訳です。

 終章では ウォール街の広場占拠運動に触れ 「奇妙なのは、こうした運動に一部の資本家の資金が流れていることです。」と述べています。先月号で紹介した堤未果氏も同様のことを書いていました。おそらく 一面ではそれが真実なのでしょう。
 「20世紀のロシア革命が生んだレーニン主義的革命は、権力を生みだしただけかもしれません。だからその反省をする必要はあります。」「政権奪取だけでは革命とはいえないのに、暴動、蜂起、一揆など、すべてが革命と見えてしまうのは、状況の分析がないからであるといえます。」「暴動は、それによって実現される社会が人間の新しい可能性を示せる場合にのみ、革命だといえるのです。」とまとめています。

 おわりにで 今日の世界の民衆の動きに触れ 「現在、国家回帰現象の中で起きているもろもろの出来事は、民衆の自由意思による反発であると捉えることもできます。」「イギリスの場合だと、既成政党である労働党も保守党も、EU残留賛成であったのに否決されたという深刻な事態です。」「民衆の声を吸収できているのは皮肉にも極右と極左だということです。」「こうした現象の根幹には、資本主義のシステムと結びついた既成政党の枠組みが、資本主義の変動とともに、変化を余儀なくされていることがあります。」「現代社会の抱える問題が、もはやたんなる人権の問題ではないことを意味しています。生きる権利、働く権利という基本的な権利が守られていないことへの怒り、それは現在の資本主義システムそのものへの疑問となって表れています。」と述べています。
 つまり 筆者は 直接には明言していませんが 生きる権利、働く権利の要求という民衆のうねりを見たとき 資本主義は終わりを迎えつつあり、世界は革命前情勢に入りつつある。だから レーニン主義的革命(それはスターリン主義社会を創り出した)の誤りを見すえた正しい革命論を考えようではないかと提起しているのだと思います。
 確かに 反スターリン主義を唱えていた私たち自身 68年以降、権力奪取さえすればあとは何とかなるさと考えていた面があったと思えるので 筆者の提起は正鵠を射ていると思います。ただその回答としては さきに述べた批判の第2点目(生産関係の変革)が欠落しているので 不十分だと思いました。
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