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利子生み資本(貸付貨幣資本)について

利子生み資本(貸付貨幣資本)について
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 利子生み資本(貸付貨幣資本)は 世間では金融資本と呼ばれています。現在の資本主義は 「経済の金融化」と言われるように、膨大化した利子生み資本が産業資本(生産と流通)にかわって資本の基軸にすわった社会です。後者は実体経済で 前者はそのほとんどが架空経済(観念)です。いまグローバル経済と言われ世界中でおカネが飛び交っていますが 実体経済である貿易のために動いているおカネはその1%にすぎないと言われています。
 8月号で述べたように 74、5年恐慌で資本主義の発展が過剰生産に陥り、完全に行き詰まり 各国はその危機(恐慌の爆発)を 国債による公的資金の注入で救済してきました。本来貨幣は金の裏付けが必要でしたが 71年ニクソン・ショック(ドルの金兌換停止)によってその裏付けが必要なくなり 第二次世界大戦の反省から戦後禁止していた(赤字)国債発行がその後繰り返されてきました。だが 2008年「100年に一度」といわれたリーマン・ショック(世界金融恐慌)が引き起こされ もはや資本主義の救済が不可能であること、救済手段である国債の発行が限界に達しつつあることが 誰の目にも明らかになりました。いまや私たちは資本主義の終わりを迎えていると言えます。
 マルクスの理論を是としてきた人たちは これまで実体経済を軸に世界を論じてきました。もちろん 生産と生活が人類が生きていくための絶対的必要物なので(おカネではありません!)それは当然正しいことなのですが 逆に利子生み資本についてはほとんど考えてこなかったと言えます。例えば 宇野弘蔵が貸付貨幣資本の大本である銀行の必要性を主張するために『資本論』Ⅲ巻の利子生み資本論を「信用論」と言い替え、マルクスの理論を歪曲・否定しても 批判は起こらず 宇野理論はマルクス経済学の一潮流であるかのように扱われてきました(90年代清水の指導のもとに書かれた仲山良介著『資本論の研究』は宇野理論の引き写しにすぎません)。だから 90年を前後して利子生み資本が資本の基軸になったとき 世界経済・資本主義を論じる視点を持ち合わせていず少なからずの人が金融論、つまり近代経済学へと宗旨替えしたように見受けられます。だが それは資本主義への屈服にほかなりません。
 マルクスは『資本論』Ⅲ巻後半で利子生み資本を扱っています。だから私たちは ここに軸足をすえて現在の資本主義を論じていかねばならないと思います。

 <利子生み資本を考える基本>
 『資本論』Ⅲ巻25章でマルクスは「信用業と、信用業が創造する諸用具との立入った分析は、われわれの計画の範囲外に横たわる。ここではただ、資本制的生産様式一般の性格づけに必要な2、3の点だけを取上げるべきである。それについては、われわれは商業信用および銀行信用だけを取扱うべきである。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。」と述べています。基本は商業信用と銀行信用(プラス公信用)だということです。マルクスは「信用業と、信用業が創造する諸用具との立入った分析は」しないと述べ、基本である商業信用と銀行信用をしっかりと分析しようと述べています(わざわざ「べき」という言葉を2回も使っています)。つまり 利子生み資本の基本を理解しないで金融工学や金融商品・信用用具などをあつかうことは間違いであり、それは資本主義への屈服に行き着くと言っている訳です。
 マルクスは『資本論』Ⅰ巻で生産資本を、Ⅱ巻で流通資本を、Ⅲ巻で利子生み資本を扱っています。マルクスは生産・流通(商品)・貨幣と、それぞれ分岐した資本のあり方・性格を論じているのですが 利子生み資本論を「信用論」と言い替えることは 資本のあり方・性格を資本主義のシステム論にずらすことであり 利子生み資本のもつあくどさや破壊性を隠蔽し、必要物であると言い替えるペテンなのです。他人にカネを貸すとき 相手は必ず返してくれると信用できるから貸すのであって 返してくれないと思われるときに貸す人はいません。信用論とは 貸方と借方との関係の分析であって そこで扱われる貨幣資本については分析の対象にはなっていません。
 「知識やシステムが価値を創っている」と認知資本主議を唱える人がいますが それはマルクスの理論を根本で否定し 資本(家)の主張を言い替えたものにすぎません。マルクスの理論の核心は 労働が価値を創っているという価値規定であり(だから価値は必要労働時間で計測される) 資本主義は価値を基準とする交換で商品流通がなりたっていることを明らかにした価値法則です。さらに 労働力の価値(人間の生存・再生産費)とその労働が創り出す価値量とに差があるため 資本はその差である剰余価値を搾取して大きくなっていくことを明らかにしたことです。つまり不払労働の略奪=搾取です。
 『資本論』Ⅱ巻冒頭(第1篇)で 産業資本の循環を G(貨幣)―W(生産材と労働力)…P(生産)…W'(生産物・商品)―G'が基本形であると定式化しています。
 これまでこの定式を否定した人はいません。資本家でさえ「まずお金を投入して…」と述べています。ダッシュが付いているのは価値が増大したことを示しており 実線―は等価交換の流通を示しています。そして資本はこの循環を繰り返しながら(回転と言う)剰余価値の略奪を続け大きくなっていくと述べています。その後、この循環を Pから始まる循環とみれば生産の継続性が明らかになり W'から始まる循環とみれば 総生産物の流通が示されていると述べています。Gから始まる循環は 基本形であると同時に GとG'とを比較するものであり その差が資本の儲けを示しており 資本の総括形と言えます。
 では利子生み資本はこの産業資本の循環のどこにあるかと言えば 実はないのです。循環の中にある貨幣Gは 商品と交換されるものであり、交換で価値量の変化は生じないので 流通手段としての貨幣です。価値量を増大させる利子生み資本ではありません。利子生み資本は この産業資本の循環の外部にあって 産業資本(家)に貨幣を貸し付け、一定の期間後に利子を付けて(増大して)返済される資本です。つまり 産業資本が得た剰余価値の一部を利子という名称で横取りしている資本です。産業資本(生産と流通)の儲けは利潤と呼ばれています。同じ資本(家)としての儲けであっても産業資本と貨幣資本とではその儲けの中身・規定が異なるので 呼称も利潤と利子と異なっています。
 いま見たように 貨幣は 資本主義社会では流通手段と貨幣資本という規定を受け取ります。さらに 資本主義経済は架空性を生じさせます。例えば 生産された商品は消費者が買って消費していなくても、卸屋に卸された時点ですべて消費されたものとして 生産資本家は続けての生産を続行します。消費されたという仮象が生じたのです。だから 貨幣資本も架空性が生じ、架空の貨幣資本が生じます。世間で言う金融商品です。もっとも分かりやすい例が株式です。株式は最初に投下した額面(貨幣資本)とは異なる時価で取り引きされています。額面と異なる時価が架空性なのです。だから貨幣は 資本主義では3つの異なる規定を受けとります。だが多くの人は 貨幣資本と架空の貨幣資本との区別を意図的に無視しています。それは架空の貨幣資本を金融資産(資本)として擁護するためです。
 だが産業資本の循環でみたように 架空の貸付貨幣資本は常に循環の外にあり生産にとってはまったく必要のないものです。利子は借りる前に決まっているので 過剰生産故に生産物=商品が売れ残り、産業資本が利潤を得ていなくても 貸付貨幣資本は決めた利子を産業資本から公権力を使ってでもむしり取ります(差押え)。貸付貨幣資本は 自らが資本として生き延びるために 産業資本が倒産することを、言い替えたら生産を破壊することを何らいとはないのです。利子生み資本は その架空資本も含めて 生産と生活にとってまったく必要のないものです。利子生み資本は いまの格差社会を作り出した元凶であり、百害あって一理なしです。
 認知資本主義や信用論と言い替える人たちは 利子生み資本を「現実資本蓄積のための資金融通という役割り」と意義づけますが これほど資本(主義)に心を奪われている主張はありません。生産の破壊者を意義があると言うのですから真逆の主張です。利子生み資本は産業資本に資金融通していると言うのであるなら どうして産業資本が最も融通して欲しいときに 融通しないで返済を要求したり(貸し剥し)、利子を上げたりするのかです。このフレーズは 宇野が銀行を擁護するために思いついた言葉です。『資本論』は長文なので、先達の解説・要約で理解したとしてきた人が多いと思われますが だがそれでは先達の理解の誤りがそのまま継承されていくことになってしまいます。

 <信用の3つの基本形態>
 信用は 先に見たように 基本的には商業信用・銀行信用および公信用(国債)の3つがありますが 商業信用(手形)は産業資本の循環の中にあり 銀行信用と公信用は循環の外部にあります。だから商業信用は景気循環(恐慌→破壊・停滞→発展→過熱→恐慌)と少しの時間差をもって同一歩調をとりますが(不景気になれば手形取引は消え現金取引になる) 銀行信用は 景気循環とは逆の動きをします。過熱の終わりには 商品が売れ残りだすので支払いのためのおカネを借りる需要が増え、利子率が高騰します。そして利子生み資本は この高騰した利子を払えと強制力(公権力や暴力団)をもって迫るわけですから 産業資本は倒産のうきめに陥ります。
 架空の貨幣資本には 擬制資本と生まれながらの架空資本との2つがあります。擬制資本とは一定の定期的収入があるとそれを利子と見なし それに対応する資本が存在すると観念するものです。例えば 地代は定期的な収入であるので 土地の売買価格が観念されます。5万円の地代で一般的利子率が5%とすれば 土地の売買価格は100万円と観念されるわけです。土地は存在するだけでは何ら価値物ではありません。土地に労働が加えられたときはじめて農産物や家屋という価値物ができるのです。他方公信用(国債)は 議会で承認されれば政府は発行することができます。国債は経済的根拠を何ら持っていないのです。
 だが 認知資本主義や信用論と言い替える人たちは 架空の貨幣資本を説明するとき 擬制資本を取り上げても、生まれながら架空である公信用(国債)には一切触れません。アベノミクスを見れば明らかなように 先進国のほとんどは資本の危機を公信用(国債)で作り出したおカネで救済しています。だから公信用(国債)に触れないということは資本の危機がどこで現実的に爆発するのかを見据えないということであり 資本主義は永遠に続くとする擁護以外のなにものでもありません。
 利子生み資本が資本間の競争の中で生きていくためには 3つの点が問題になります。1つは より多く貨幣を集めることです。貨幣資本は 産業資本とは異なりおカネ自身を扱かっているので 個別資本の独自性はありません。だから競争すれば大きい方が絶対的に勝ちます。さらに 大きいほど貸付金の返済が滞ったとき対応できます。この2、30年の間に日本の銀行は合併を繰り返し3つに系列化されましたが それはこのためなのです。2つめは 集めたよりも高利で貸し出せるところを見つけねばならないということです。おカネは貯めているだけでは増えません。BRICsと言われる新興国が この間経済発展を遂げてきましたが それは先進国で国内に貸し付け先がない貨幣資本が新興国に殺到し、バブルを引き起こしたからです。だが 先進国が危機になりおカネを引き上げたとき ブラジルで明らかになったように新興国の経済はバブルが崩壊し、破産します。3つめは 必ず利子が入ってくるかです。利子が入ってこなければ その貸付貨幣資本は存在しないのと同じです。とくに 架空の貸付貨幣資本はもともと実体を持っていないのですから利子が入らなくなれば無、単なる紙切れになってしまいます。リーマン・ショックは 最初特別に低利で貸し出したものが数年後には普通の高利になり住宅ローンとして借りた低所得者がその利子を払えなくなって生じたのです。その担保証券をヨーロッパをはじめ多くの国の銀行が買っていたため金融恐慌は世界的になったのです。いまや過剰生産ゆえに2つめと3つめが不可能化しています。
 利子生み資本が儲けようとする方法は 2つあります。投資と投機です。投資は 名称どおり利子・配当収入をあてにして長期に貸し付けるものです。他方投機は 利子収入は考えていず 金融商品の短期の売買差額で儲けようとするものです。利子や配当は産業資本の利潤(剰余価値)や個人の収入から得るものなので、本来的には投資が基本なのですが 過剰資本故に貸出先が見つからなくなると投機に走るわけです。冒頭世界で動いているカネに占める貿易のためのカネは1%と言いましたが 海外への投資は額が大きくてもその時だけのものなので 世界中で飛び交っているカネのほとんどは投機のためのカネだと言うことです。それだけ過剰な貨幣資本状態に世界はなっているのです。
 恐慌は過剰生産・過剰資本で起こると言われてきましたが 過剰生産状態にはすでに74、5年に達しています。通信が瞬時に行われるようになったので、生産調整も瞬時に行われることになり いまは過剰生産は生産物=商品の過剰ではなく生産設備の過剰として現象しています(統計的には操業率です)。他方過剰資本状態は 実体経済つまり金に裏付けられた貨幣としては74、5年に生じていたのですが(石油ショックとしてインフレ化した) 国債(架空の貨幣資本)を投入し続けることで、その後ごまかされてきましたが(先送り) リーマン・ショックで架空の貨幣資本自身が過剰になっているということが明らかになりました。過剰資本とは 対応する利子や配当がない状態です。

 <架空の利子生み資本の破棄>
 金融資産(株式・債権・国債・貯金など)は いまや140兆ドルに達し(09年)、世界全体のGDPの約4倍だという見解がありますが パナマ文書で明らかになったように 金融資産の多くはタックスヘイブンを利用しているので その実体把握は不可能で
す。おそらく言われている以上の金融資産(架空の貨幣資本)が存在すると思います。多くの人が そのあまりの巨額さ故に、どうしたらなくせるか判らず途方にくれているように見受けられますが いまや国債によるおカネでの救済がなければ架空の貨幣資本は無、ゼロ化するのです。
 マルクスは架空の貨幣資本について「2倍にも3倍にも見える」と述べています。この論理は 流通手段としての貨幣の回転と同じです。流通手段としての貨幣は 等価交換なので総商品量と同額の貨幣がいるかのように思われますが 1つの貨幣は何回も売買に使われます。1つの貨幣が繰り返し売買に使われる回数を貨幣の回転数と言いますが 流通手段としての貨幣の必要量は 生産物=商品の総量を貨幣の回転数で割った値です。同じことが貸付貨幣資本にも当てはまります。銀行からA社に貸し付けられたおカネは A社がB社に支払った後はB社から銀行に預金されるので 銀行はその預金されたおカネを再びC社に貸すことが可能になります。おそらく架空の貨幣資本も いまは2、3倍ではなく10倍以上に大きく見えているのではないかと思います。見せかけの金融資産(架空の貨幣資本)の「巨大さ」に圧倒されていては 現在の資本主義を批判することはできません。いま日本の国債市場は1京円を超えたと言われています。だが国債発行残高は1000兆円であり しかも日銀や年金機構などの国の財団はその国債を長期保持しているので仮に国債の半分が(投機的に)売り買いされていると見ると 1京÷500兆で約20回も売り買いされていることになります。
 また金融資産が○○兆円あると言われるとき その金融資産と計算されているのは貸出分です。だが銀行が預かっている預金は銀行にとっては借金であり 貸付と合算すると差引ゼロです。つまり銀行は 貸出額と同じだけの預金を預かっています。だから銀行が持っているおカネは 最初の投下資本と貸倒れ引当金だけであって、実にわずかなのです。巨大に見える金融資産(架空の貨幣資本)のネタ元は 国債で創られたおカネなのです。それが10倍にも見えているのです。国債の償還は借替債で先送りできたとしても 利子は税収から払わねばなりません。利子が払えなくなれば貸付貨幣資本は無に帰します。利払いが税収を超えたとき(一般的利子率が高騰するとそうなる)、あるいは借替債が発行できなくなると 国債の上にそびえ立った架空資本・架空経済は国債とともに崩壊してしまいます。
 架空も含めて貨幣資本について部分的にでも必要物ではないかと考えた瞬間に 資本(主義)の擁護に転落します。膨大化した架空の貨幣資本が要求する利子や配当も巨大化していくので 産業資本はそれを払うために労賃分を減らして剰余価値(利潤)を大きくせねばなりません。その結果、労働条件の悪化と格差社会が作り出されてきたのです。
 いまや 架空の貨幣資本の自己崩壊を押し進め 実体経済に戻さねばならないときにきていると思います。リーマン・ショックの後、金融資本の救済を民衆の総意(国民投票)で拒否したアイスランドに続けです。
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