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熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』を読んで

熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』を読んで
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 熊野純彦著『マルクス 資本論の哲学』(岩波新書 2018.1発行 880円)を読みました。筆者は東京大学の教授で倫理学、哲学史が専攻だそうです。 (抜粋内の[ ]は松)
 あとがきにかえてで 「『資本論』はおおむね3つの視角から研究されてきました。ひとつはマルクス経済学の経済学原理論の立場です。ふたつ目は資本論体系の形成史的研究… 第3のものは哲学的視点からの研究…」と述べています。本書は題名からも明らかなように哲学的視点からの論究です。私は 資本主義経済を本質論的に明らかにした経済学としてしか読んでいないし もともと理系だったので哲学的素養はなく しかも使われている語彙や言い回しに馴染みのないものもあり きちっと理解できたとは言えませんが 『資本論』理解の視点としては概ね正しいのではと思うので紹介します。特に「もし3度目の世界革命が起こりうるとして、いまなおこの世界の枠組みを規定している資本制について最も行きとどいた分析を提供しているこの書を踏まえることなしにはあり得ないだろう。」と 『資本論』の現在における意義を述べていますが その通りだと思います。
 冒頭に「世界革命はこれまで2度おこっている。1度目は1848年であり、2回目は1968年のことだった、と言われています。」と書かれていて エッと思いました。私たちの常識から言えば 「2回の革命」と言えば1871年のパリコミューンと1917年のロシア革命を指すので。革命と呼べるためには 既存の国家権力の打倒=民衆の自己権力の確立と資本制的生産関係を破棄し新しい(共産主義的)生産関係の形成が絶対的条件だからです。1848年も1968年も生産関係の転換までは行っていないからです。筆者はその後「[異論もあるが]そのふたつの変動が、それ以降の世界の枠組みに大きな影響を与えた、それぞれの劃期であった…」と述べているので 哲学的(思想的)にはそう捉えるのかなと思って 特に世界的広がりから言えば、1871年と1917年は一国内の話なので世界革命とは言えず また主旨自身は 1848年と1968年にはマルクスが広く読まれていたと本書の導入として書かれているので 保留にしたまま読んでいきました。筆者は 経済学的には 宇野派の主張が正しいと思われているようです。
 本書の構成は 第1章:価値形態論―形而上学とその批判 第2章:貨幣と資本―均質空間と剰余の発生 第3章:生産と流通―時間の変容と空間の再編 第4章:市場と均衡―近代科学とその批判 第5章:利子と信用―時間のフェティシズム[物神崇拝] 終章:交換と贈与―コミューン主義のゆくえ です。
 終章の最初で 第1章~第5章を振り返って「『資本論』は、商品という一見したところごくありふれたものが、じつのところ謎に満ちたありかたを伴っているしだいから考察を開始し、資本の生成と運動を見とどけて、その総過程を問題とする地点まで到達していました。本書では、マルクスのその思考のみちゆきを、価値形態論を形而上学批判として読みなおすところからはじめて、資本の運動を時間と空間の再編過程ととらえるこころみを経て、科学批判としての資本論体系をきわだたせながら、利子生み資本と信用制度のうちに時間のフェティシズムを見さだめる地点まで辿りついたところです。」と述べています。
 本書は 『資本論』理解について これまでの主要な論争を哲学的視点から考えて論究し、正しい理解を示そうとするものだと思います。紙面の都合で 2、3の論点についてしか触れられませんが 以下、意見を述べたいと思います。

 第4章で 再生産表式と転形問題・利潤率の均等化を取り上げています。
 最初に「『資本論』におけるマルクスの思考を経済学と呼んですませてしまうとすれば、これもまたあきらかな誤読です。」「マルクスの原理的な思考をさして科学主義というレッテルを貼ることはむずかしいと思います。」「マルクスの思考を目して産業主義とみなしたり、生産力主義と考えたりする見かたがひろま[りましたが]誤解ないしは曲解で…。」「マルクスがみずからに引きうけた課題は経済学をさらに発展させることではない。批判的な経済学を構築することでもない。ひとえに経済学批判を展開することでした。」「マルクスの思考は、第一義的には科学でもイデオロギーでもありません。マルクスにとっては経済学がイデオロギーなのです。経済学批判とはだから経済学ではなく、経済学の基本的な前提の覆いをとって発見し、暴露するくわだてにほかなりません。」と述べて 概括的にこれまでの経済学的理解における問題性を指摘しています。
 再生産表式について。「過剰生産による恐慌の生起には一生産部門ばかりでなく、他の多くの生産部門がかかわり、また信用関係、産業間を跨いで貨幣資本を融通する金融資本の操作が関係することで、恐慌は同時にまた信用恐慌として生起します。生産部門どうしの関係を考えておくためには、資本の流通過程を商品資本にそくして見ておく必要があります。」「商品資本の循環はかくして同時に『総資本』の運動形態ともなり」と述べています。生産財生産部門(部門Ⅰ)と消費財生産部門(部門Ⅱ)とにわけて検討したマルクスの考えを正しいとしています。
 そして「現在主流の経済学では資本主義という語も資本制という言葉も使用されず『市場経済』という表現が好まれますけれども、これはすでにひとつのイデオロギーです。『共産党宣言』でいう『いっさいの国々の生産と消費とを全世界的なものにする』資本制の歴史を、自然過程として肯定するイデオロギーであり、グローバリゼーションという現在を自然状態とみなして、支配を正当化する世界像なのです。」と述べています。まったくそのとおりだと思います。
 再生産表式それ自身は 『資本論』通りに 単純再生産と拡大再生産の順に簡単に説明して 結論は 単純再生産ではⅠ(v+m)=Ⅱc、拡大再生産ではⅠ(v+m)>Ⅱcが成立する条件だと述べています。そして「『マルクスの経済表』を見る限り、その分析は均衡条件を求めているように見えながら、じつは均衡の背後にある偶然と不確定的な諸条件を問題とするものとなっています。」と述べています。まったくその通りで 例えば、均衡(拡大)軌道論(Ⅰ、Ⅱとも同じ率で拡大する)は間違っているのです。
 「マルクス経済学者たち[の一部]は『資本論』の再生産表式論を、価値法則の絶対的基礎を与えるものと見なしてきました。価値法則とは、商品の価値はその(再)生産に必要とされる(社会的に)必要な労働時間によって決定されるとするものですが、この決定が全社会的な流通―配分機構に依存するはこびが、表式論によって示されると見るわけです。この理解は一方で、マルクスにおける価値の規定が抽象的人間労働の定義で完了しているわけではないと考える限りでは正しいのですけれども 他方では表式論そのものをやはり均衡論的に解釈している傾きがあるように思います。」と述べています。
 そして「価値法則が破れているとされる局面に目をむけてゆく必要があります。」と提起し 剰余価値の利潤への転形・一般的利潤率の形成・価値の価格への転形の問題に入っています。
 Ⅱ巻21章でマルクスは何を言っているのかを明らかにすることは 『資本論』理解そのものにおいて重要な問題です。これまですべての人が「21章は未完成」としてきました。私は 21章3節三で 貨幣を入れずに価値だけで考えると拡大再生産は行き詰まり単純再生産に落ち着いてしまうが、貨幣があるとその制限を突破して生産の拡大的継続が可能になるが(部門Ⅱの過剰生産)、その結果価値法則からの乖離が拡大し恐慌が爆発する と書かれていると明らかにしてきました。そもそも均衡軌道論は 拡大再生産表式の数年間の計算から思いついたものだと思いますが 数年間の計算はマルクスの検討中のメモからエンゲルスが本文に採用したものです。ⅠcとⅡcの比率は国(経済圏)や時代(生産の発展度)によって異なるので Ⅰcを固定してⅡcの数値をいろいろ変えて検討すべきなのです。筆者は Ⅱ巻の結論でもあるこの結論を出し切れていないのです。実に残念です。
 「剰余価値という語は前者[分析者の立場]に、利潤という表現は後者[当事者の立場](資本)に帰属する概念系である」ことを確認して 「資本の構成や回転期間に差異が存在するにもかかわらず、一般的な利潤率が支配的となるという事実が価値法則と背反するのではないか」と「マルクスは自問しています」と論点をあきらかにして 『資本論』Ⅲ巻第2篇:利潤の平均利潤への転形 でのマルクスの論証を簡単にスケッチしています。
 そして「転形問題において変換するものはほんとうはなんでしょうか」と問い 「じっさいに変換していたのは、むしろ認識の次元と視点であって、…分析者の立場から当事者の立場への転換なのです。」と述べています。「価値とは、ほんらい関係であるものが物象化した水準で問題となり、投下した労働量なるものによって測られる虚構であり、価格とは投下された資本の量がそれを実現するとされる仮象です。それらはともに経済をめぐる数量的科学としての経済学に内在する、市場の支配を正当化する世界像ではないでしょうか。」と述べています。「ともに」には少しひっかかりましたが 正しいと思います。

 終章で 未来社会論について 『ゴータ綱領批判』で「マルクスは、コミューン主義的な共同体を『生産手段の共有にもとづいた協同組合的な社会』と特徴づけたうえで、そのありかたをめぐってふたつの段階を区別しています。…」と述べています。筆者の論点はふたつの段階の理解にかかわる問題ですが 私はその前に 未来社会について「生産手段の共有にもとづいた協同組合的な社会」と正しくおさえられているので 納得しました。コミューン型とかソビエト(評議会)型とか言いながら 生産関係が生産協同組合的に転換するという核心を忘れた意見が 結構流布されているからです。
 ふたつの段階とは 共産主義の第1(低次)段階と第2(高次)段階のことですが 第1段階は「能力にしたがって労働し、…労働にあわせて受けとる」、第2段階は「各人はその能力に応じて[労働し]、その必要に応じて[受けとる]」とマルクスが規定していることは広く知られています。筆者は これまでこの差は生産力の発展の違いとしてのみ捉える傾向が強かったが、原理的転換があるのではという主張です。つまり 第1段階は「交換」であり、第2段階は「贈与」だと。交換は 同じ価値量同士の交換だから 平等や権利が問題になるが 贈与はそれぞれ一方的行為なので 平等や権利という概念は乗り越えられている(消滅している)ということだと思います。
 続けて「権利という発想そのものが乗りこえられなければなりません。権利とはかならず排除をふくむ、力に対抗する力にほかならないからです。あるいは、特定の資格を承認された者たちに賦与される、一定ていど排他的な力こそが権利であるからです。」「第2段階では権利ではなく、必要もしくは欠落が原則となります。…必要だけが分配の原則となるとすれば、平等が問われるような分配ではありません。…他者との関係と他者の存在そのものを無条件に肯定する贈与です。」と説明しています。
 「贈与」という言葉には これまで「分配」と言ってきたので、少し違和感を覚えましたが 内容的にはまったく正しいと思いました。共産主議論をより深く理解する・考える契機になると思いました。
 だが この正しい論究にあわせて 筆者は「本書では、マルクスを産業主義者、あるいは生産力主義者とみなすのは誤解であるむねを、確言しておきました。ここでは逆に、マルクスの未来構想は、資本制社会のじゅうぶんな成熟と、資本制下での生産力の拡大を前提とするものであったことについて、疑いを容れないということになるでしょう。つまりマルクスの死後、現実に生起した政治革命はすべて、マルクスの想定したみちすじを、その初期条件からして充していなかったことになるわけです。」と述べていますが この点は間違っていると思います。マルクスはパリコミューンが起こったとき 起こる前には時期尚早と考えていましたが 現実に起こったときにはメンバーをパリに派遣し、生産協同組合を創ることを指示しています。民衆の決起・蜂起を共産主義的なものにするために必死に闘っていました。積極的な支持に転換しています。産業資本が支配的になった時点で いまから見れば発展途上であったとしても「初期条件」を充しているのです。もし著者が言うように「資本制社会の充分な成熟と生産力の拡大を前提」としない限り必ず未来社会は歪曲されてしまうのであれば 現在的にはアメリカ以外では革命はするなということになってしまいます。それではマルクスが第1段階と第2段階とを区別した意味がなくなると思います。第1段階は 生産力の発展ではなく、搾取や収奪をなくし働けない人を社会的に扶養しながら労働に応じた平等な分配・交換を基本としています。生産力の拡大は問題にしていません。
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