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『未来』の請戸論文について

『未来』の請戸論文について
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 革共同再建協の機関紙『未来』249号(18/7/05)と250号(7/19)に 請戸耕市氏の上下の論文「焦点 アメリカ覇権は終焉に向かうか」が掲載されています。
 この論文は 先月号と先々月号で批判した総会報告・香月論文と同様の「現在版超帝国主義論」であり 資本主義の打倒・革命抜きに未来社会が可能であるかのように言いなすものです。『資本論』の抜粋などマルクス主義を装いながらマルクス主義の根本・『共産党宣言』で明らかにした階級闘争史観などを否定するものだと思います。かつて レーニンは 『帝国主義論』でカウツキーの「超帝国主義論」を批判することを通して革命の必要性・必然性・現実性を明らかにしましたが 同様の闘いがいま再び問われていると思います。革命がいまだ遠い将来の話の時には「革命」を語りながら、革命が指呼の間に入ってくると革命を否定する輩が生じることを 歴史は改めて示したと思います。60年代後半から70年代前半、いわゆる70年闘争で「ブルジョア的在り方すべてを捨て」て決起した人たちには 信じられない話かもしれませんが。
 
 第1に 香月論文と同様 この論文にも「帝国主義」という言葉は一切使われていません。「基軸国」を「覇権」と言い換えています。この点は 先々月号で「階級的視点の放棄」と批判したので、ここでは改めて展開しません。ただ「覇権とは、政治・経済・軍事の支配力であるとともに擬制的な普遍性がカギをなすが」と 香月論文が無視した経済・軍事がいかにもその基礎・土台であるかのように述べていますが その後は「擬制的な普遍性」が論点であるかのように展開していて 論全体で経済状況(現象論)には触れても、資本が「実践的友愛から兄弟間の戦闘に転換」しつつあるという経済動向の基軸・基本を無視していることには変わりません。
 第2に 筆者は覇権の条件として「擬制的な普遍性」を上げています。しかし 擬制的と普遍性は基本的には対立する概念です。本来普遍性は真理だから成立するのです。擬制的=ウソが普遍性を持つことなどありません。封建時代には天動説が信じられていましたが。筆者が言う「擬制的な普遍性」とは何を指すのかです。おそらく 総会報告などで述べている「『自由と民主主義』『法の支配』『普遍的人権』『反共主義』を『共通の価値観』とする」を指していると思われますが 先々月号で「アメリカはダブルスタンダードの国であり、共通の価値観などない」と批判しました。だからおそらく 筆者は具体例を上げれなかったのだと思います。資本主義における唯一の普遍的真理は「資本は儲けるためには・あるいは破産しないためには何でもする、殺人も戦争も厭わない」ということです。
 筆者は 「擬制的な普遍性」つまり資本主義の虚偽のイデオロギーを「覇権」の核心的条件としていますが それでは観念論そのものになってしまいます。
 第3に この論文は支配階級という言葉を一切使わずに、「エリート」という言葉に置き換えています。エリートという言葉も「覇権」と同じく一般用語であって 階級的視点は含んでいません。しかも エリート、つまり筆者が言う「ビジネスエリート・民主党や共和党の政治エリート・主要メディア・リベラルな知識人」たちは 巨大(金融)資本に群がる彼らの代弁者たちであって 資本(家)そのものではありません。資本・資本主義が打倒されれば 彼らの存在意義もなくなってしまいます。資本対賃労働の階級対立(本質)をエリートと民衆の対立という図式(現象論)にすり替えていると思います。
 テレビに登場する評論家諸氏が 民衆とエリートを対立させて、いかにも自分は民衆の味方であるかのような評論を述べているのをしばしば見受けますが それは民衆を「真に打倒すべきは資本・資本主義だ」に向かわせないためのコメントにすぎないのだと見抜けなければ 革命党の一員とは言えないでしょう。請戸氏のこの論文は 評論家諸氏のコメントと同じ視点・内容だと思いました。   
 第4に 筆者はポピュリズムを「<自分たちの声を誰も代表してくれていない>と感じる人びとが、自分たちの声を聴かないエリートに対して、異議を申し立てる反乱である。」と規定しています。先月号で総会では「ポピュリズムを大衆迎合主義と訳しているのは間違いで大衆煽動主義ではないのか」との批判がでたと紹介しましたが 初めはその批判を気にして日本語訳を書いていないのかと思ったのですが どうも筆者は ポピュリズムの大衆迎合主義、大衆煽動主義のどちらの訳語にも反対しているのだと思います。大衆迎合主義も大衆煽動主義も 主語はどちらも民衆ではなく政治家・「政治エリート」です。だが筆者のポピュリズムの主語は 民衆なのです。だから 打倒対象を隠蔽しているという点で 筆者は総会報告や香月論文よりも階級的視点をより放棄していることになります。
 新たな価値を生み出さないにもかかわらず利子・配当を要求する貸付貨幣資本が生産資本(産業資本)に代わって資本・資本主義の主軸になったが故に 労働条件の悪化と格差社会が生み出されたのです。現在、資本主義的発展が完全に行き詰まっていて、その矛盾が民衆に押しつけられているから 民衆の中に現社会への怒り・批判が渦巻いていることは事実ですが だからと言って 不満を持つ民衆が必ずポピュリズムになるということはありません。先月号で「小池都知事の豊洲問題も大阪維新の都構想も 民衆から発案されたものではなく、彼ら自身がそれまでの自民党の利権構造を潰すために言いだしたものです。」と述べましたが 大衆煽動主義的に登場し、煽動する輩が出てくるから 不満を持つ民衆がそれに乗せられてしまうのです。小池や松井は自民党の中から登場したのであって 民衆の中から登場したのではありません。
 なぜ不満を持つ民衆がポピュリズムに乗せられるのかと言えば 民衆の要求実現は民衆自身の直接行動(大衆闘争・自己決定権の行使)によってしか実現できないのに それに気づかずに、政治への参加形態を「選挙でより良い政治家を選ぶ」という他人依存に限定してしまっているからなのです。筆者は「労働者のポピュリズム的な反乱…」と述べていますが 労働者が自らの不満や怒りをポピュリズムを押し上げること(投票行動)によってしか表現できていないという点(在り方)こそが 問題なのです。
 第5に 筆者は グローバリゼーションの行き詰まりの原因を アメリカの民衆の消費力の減退においています。まさしく 共産党などが言う「生産と消費の矛盾論」そのものです。中核派はこれまで 共産党などの主張を批判し、資本主義の危機は資本が儲けるためにその発展(拡大再生産)を追い求めるが故に過剰生産に陥るから生ずるとする宇野理論などを正しいとしてきました。もちろん私は 過剰生産故に危機に陥る論は正しいと思いますが 宇野派が主張する、それが「労賃の高騰によって利潤率が低下するから」論はマルクスの理論の間違った「理解」、と言うより理解できなかった故の間違った思いつきだと思います。マルクスは 『資本論』Ⅱ巻21章で 生産財生産部門と消費財生産部門との部門間の生産拡大のスピードのズレ(差)として提起しています(つまり生産自身の問題なのです)。だが エンゲルスやレーニンを含めて、これまでこのマルクスの論理を理解した人は誰もいなかったのです。マルクス主義再生の鍵は マルクスの「遺書」にあたる『資本論』Ⅱ巻21章を正しく理解することにあります。
 第6に 筆者は「では覇権交替はあるのか?」と問題をたて 中国とEUを取り上げています。中国について「覇権とは、政治・経済・軍事の支配力であるとともに擬制的な普遍性がカギをなすが、中国には前者はさて置き、後者について、…とってかわりうる要素がない。」と述べています。後者については「ない」と言いながら 前者については「さて置き」と論じないということは 論理的には「ある」といっているのに等しいと思います。だから筆者は 中国脅威論に乗せられていると思います。「覇権」が成立する(正しくは基軸帝国主義である)根拠・土台は経済と軍事です。悪意ある中国脅威論者をのぞき、軍事的に中国がアメリカに対抗できると見ている人はいないと思います。アメリカは世界中に基地を持ち世界のすべての空・海を制圧しているのに対して 中国はベトナム沖に出ていこうとしている段階です。経済的には中国は南アジアやアフリカに侵出していますがアメリカと衝突しそうな所は避けています。さらに 71年のドルの金兌換停止以降、世界通貨はドルです。金ではありません。イラク戦争は イラクが石油取引をドルからユーロに替えたから アメリカは起こしたのです。「大量破壊兵器が存在する」はまったくのウソ・デッチ上げであったことがその後明らかになっています。金本位制の時代であれば 金の保有量によっては「覇権」的対抗(ブロック化)は可能だったかも知れませんが ドルが基軸通貨である以上 帝間戦争でアメリカが敗北する以外にその交替は不可能だと思います。 
 第7に 筆者は 「経済的諸制度から国家的諸制度に至るまで、それらは、搾取・収奪という資本の論理を正当化し延命するために幾重にも重ねてきた『外被』(マルクス『資本論』)である。」と述べ 「トランプは、そういう『外被』を放り出すという。まさに『外被の爆破』である。」と展開しています。この「外被の爆破」は 『資本論』で使われている言葉ですが 意味がまったく違います。
 『資本論』Ⅰ巻24章の当該箇所を抜粋します。ここは マルクスがⅠ巻の結語として未来を展望した箇所として有名なところで どのダイジェスト的解説書にも抜粋・紹介されています。
  「こうした収奪は、資本制的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の  集中によって、なしとげられる。一人ずつの資本家が、多くの資本家をうちほろぼす。  こうした集中、または、少数の資本家による多数の資本家の収奪とあい並んで、……。  この転化過程のあらゆる利益を横奪し独占する大資本家の数のたえざる減少につれ   て、貧困・抑圧・隷属・頽廃・搾取の程度が増大するが、しかしまた、…労働者階級  の叛逆も増大する。資本独占は、それとともに またそれのもとで 開花した生産様  式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化は、それらの資本制的外被と調和し  えなくなる時点に到達する。この外被は粉砕される。資本制的私有財産の葬鐘がなる。  収奪者たちが収奪される。」
 筆者は この「外被」を「幾重にも重ねてきた」「覇権の論理」や「国家の論理」としています。だが マルクスは 「資本独占」を受けて「この外被」と言い、「外被は粉砕される」に続けて「資本制的私有財産の葬鐘」と書いているのですから 「外被」が資本制的所有つまり資本の私的所有・私有財産制を指すことはあまりにも明らかです。あえて付け加えれば 『資本論』Ⅰ巻は 生産過程を分析していて Ⅱ巻の流通やⅢ巻の資本の分岐・自立化(総過程)にはまだ踏み込んでいません。だからこの「外被」が「覇権の論理」や「国家の論理」でないことは明白です。筆者の説は「外被」という言葉自身からの思いつきであって 『資本論』を読んだ人が言ってる説とは思われません。おそらく 筆者自身は誤りに気づかないで まともに読んでもいないのに「読んだ」と押し出さざるをえない「学者」の受け売りかと思われます。筆者の「理解」および「学者」の見解は 歪曲読みそのものというより 自らの思いつきをいかにもマルクスの説であるかのように押し出す詐欺的手口だと思います。
 またマルクスは 大独占資本の成立によって「貧困・抑圧・隷属・頽廃・搾取の程度が増大するが、しかしまた、…労働者階級の叛逆も増大する」と述べて「外被が粉砕される」としています。資本のあくどさに対する労働者階級の決起・反乱が起こるから「外被が粉砕される」と展開しているのに 筆者は「『外被の爆破』は、論理的に言えば、たちまち資本の論理の破綻へと『転回』する。それは、労働の論理・連関の回復、…の潜在的な始まりである。」と 労働者階級の決起・反乱をスルーして 未来社会の「潜在的な始まり」と展開しています。だから「革命抜きの未来社会成立論」になっていて まさしく「現在版超帝国主義論」そのものです。
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