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8.8講演会に参加して

8.8講演会に参加して
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 先月号で村上さんが報告した8.8講演会(講師:関良基 「目からウロコ!明治維新の正体 150年キャンペーンのうそ」)に私も参加しました。題にあるように 私にとっても本当に「目からウロコ」でした。講演内容はすでに村上さんが報告しているので 感想を述べたいと思います。
 明治政府は これ程までに事実を隠蔽・改竄し、「維新物語」のウソを民衆に押し付けてきたのかと驚き 同時に私自身 『古事記』や『日本書紀』に書かれた天皇制成立のウソ(先行する倭国の存在の抹殺)や江戸時代を暗黒だったと描く身分制のウソ(身分制は天皇制の制度)などに気づきながら、「維新物語」については大筋そんなものだろうと見ていたので 自分の「甘さ」に恥入りました。
 例えば 江戸幕府が諸外国と結んだ通商条約は不平等条約で、明治政府はその不平等条約を解消するために何年も努力してきたと学校で習い、私もそう思ってきましたが 幕府が最初に結んだ通商条約の関税率は20%で 長州が引き起こした下関戦争の敗北の結果5%の関税に引き下げられたことを知りました(関税率が低いほど外国製品が入りやすくなります)。また 幕府が先に大政奉還したので軍事攻撃の口実を失った西郷は 手下を使って浮浪者をかき集め、江戸市中において強盗・辻斬り・放火・強姦などの無差別テロをやったそうです。江戸城が無血開城で合意できたのは 幕府側がその犯人たちを捕らえていたからだと知りました。西郷の腹の大きさ・器の大きさではなかったのです。さらに靖国神社の前身は東京招魂社で、そのモデルは長州の招魂社です。幕末-維新過程でなくなった16名の長州の「志士」が 最初に祭られているそうです。講師は「A級戦犯の合祀問題などに矮小化してはならない」と述べましたが その通りだと思いました。
 講師は 非暴力主義の様なので、私とは主張が異なりますが 明治維新を「反革命クーデター」と規定しています。「反革命」と規定していいのか少し疑問ですが 武士である当時の支配階級内の権力争いであるので「革命」ではなく「クーデター」は正しいと思います。もちろん政治的には進歩ではなく、反動であったことはその通りですが。維新後、資本主義になった(経済的進歩)のは 彼らが元から考えていたからではなく イギリスにそそのかされ、イギリスの最新式の武器で権力を握った(実質傀儡)ために 結果として資本主義化するしかなかったのだと思います。また日本自身が 商業の発達で資本主義に発展するのを待っている状態だったとも言えます。だから 長州の「元勲」が作った古代天皇制を民衆支配の要にするというグロテスクな超反動的体制(神祇官や太政官制など)のもとでありながらも 資本主義化が進展して行ったのだと思います。
 講師は 明治維新で作られた国家体制を「長州レジーム」と呼んでいます。下関戦争で敗北するやそれまで唱えてきた攘夷を捨て開国に転向したように 覇権国には屈服・従属し それを覆い隠すためにも、民衆に対しては強権的に振舞い、官僚の思惑通りに民衆を操作しようとする体制です。この間の安倍の森友・加計問題や自衛隊日報問題での対応(平気でウソをつき、黒を白と言いくるめる手法)や官僚の安倍に対する忖度を見れば 第二次大戦の敗北で民主主義になったはずなのに 「長州レジーム」がいまも続いていると思いました。
 暴力問題について言えば 反革命集団が暴力で革命派を襲ってくる以上、革命の側が武 装防衛できなければ 革命は血の海に沈められ、敗北するということです。また 民衆が国家権力の暴力に抗して自己権力の樹立(革命)に決起するためには 実力的決起が絶対必要だと思います。つまり 両者は別のものであり 革命党は民衆の実力的決起を代行することはできないのです。これまでの新左翼の武装闘争路線の誤りは 民衆の決起を措定しないで 自分たちの武装闘争だけで革命・権力奪取ができるかのように考えてきたことにあると思います。いま運動圏では「非暴力」「直接行動」という言葉がはやっていますが 暴力つまり武装闘争一般が否定されるべきではないと思います。全人民武装=民兵制につながる武装は正しいと思います。
 講師は 天皇はもともと直接政治にはタッチせず、いわゆる象徴的存在であったから続いてきたのであり 天皇が親政を行ったときは国が大混乱したと 天智と後醍醐をあげています。それはまったくその通りですが 663年の白村江の戦いで敗北したのは 太宰府が首都であった倭国であって、大和朝廷ではありません。天智に相当する大王は奈良にいたと思いますが、大和朝廷はまだ成立していません(成立は7世紀の末)。

 講師は最初に 安倍晋三と宮本顕治が尊敬する人はともに吉田松陰であることを示し、右も左も明治政府の作った「維新物語」のウソを信じきっていると明らかにしました。本当にそうだなと思いました。革命を考えている人たちだけでなく、日本の民衆の多くが 「常識」化されている「維新物語」のウソに気づき、真実に到達しない限り 民衆が自己権力を打ち立てる革命はまず無理だろうなと思いました。70年闘争を果敢に闘いながらも、資本主義の変質(国債による架空の貨幣資本の創出)ゆえに、資本主義の発展の行き詰まりであった74、5年恐慌を革命に転化できなかったことは残念の極みですが 例えそうでなくても 支配階級のウソ・欺瞞を明らかにできないで、支配階級が流す「常識」を信じてきたこれまでの左翼の思想・理論では 革命などおぼつかなかったということだと思います。すべての党派にこれまでの思想・理論が正しかったかが問われています。
 革命運動は一代限りの運動だと言われてきました。私たち70年闘争世代の革命運動は「すでに終っている」のです。2、30才代の若い世代の中から彼ら自身の革命運動が登場してくる以外に 未来の展望はないと思います。私たちの多くも20才前後で運動に決起したのですから。
 だから 私たち高齢者の役割は2つだと思います。1つは 若者たちが新たな運動・組織を創り出すまで 権力との正面対決である沖縄や反原発・改憲阻止の闘いの火を消さないために頑張り抜くことだと思います。もう1つは 新たに開始した若者たちがすばやく勝利できるために 私たちと同じ誤りを繰り返させないことです。そのためには 自分たちの失敗・敗北の教訓を明らかにすることだと思います。教訓と言うと闘いの成果や自己の頑張りをあげるのが普通ですが それでは若者たちに同じ誤り・失敗を繰り返せと言っているようなものです。特に先に述べたように 私たちが間違った原因の1つに 支配階級が流すウソ・「常識」を信じてきたという面があります。例えば 私が明らかにした『資本論』Ⅱ巻21章の正しい理解は 明らかにしてから10数年たっているのに いまだに「これまで流布されてきた未完成論は間違っていた」と言う人は現れてきません。それどころか これまでの誤った理解を展開した本がいまも本屋には陳んでいます。それでは誤りを継続せよと言っているようなものです。
 「聖徳太子はいなかった」はいまやほぼ常識になりつつありますが(聖徳太子は 学校で教える厩戸ではなく 成敗された蘇我氏の功績を述べるときの架空名。なお聖徳は倭国の元号です。) 『記』『紀』が抹殺した倭国の存在や天皇制成立のウソは いまも信じられている状況です。
 この講師もそうですが いまそれぞれの分野で(孤立的に)これまでの「常識」を覆す「新見解」を述べる人がでてきています。国をあげてウソ話を押しつけてくる国ですから おそらくこれらの「新見解」が正しくて、真理を突いているのだと思います。マルクス主義(特に革命後を見据えた晩期マルクス)・唯物論を土台にして 「新見解」を精査し、バラバラな各「新見解」を一つの体系的な理論にまとめあげたとき 若い世代が使える真の革命理論ができ上がるのではないかと 私は思っています。
 6、7、8月号の<ひとくち評論>で 私は再建協の機関紙『未来』に載った2、3の論文を批判しました。トランプが基軸国の有利さを使って関税競争を開始し、「資本の兄弟間の戦闘に転化」しつつある現在の情勢を グローバリゼーション解体の始まりとしてトランプなどポピュリズム(大衆煽動主義)を一定評価する彼らの誤りの原因は 経済学ではなく社会学を情勢分析の手法にしているからです。唯物論および階級闘争史観にたつマルクス主義は 生産関係・生産様式の下部構造と政治・イデオロギーである上部構造とに分け 「下部構造が上部構造を規定する」(一義的直対応ではありません)としています。だから 下部構造を分析する経済学(儲け話の経済学でなく)が 情勢分析の基礎に座っていなければならないのです。だが社会学は マルクス経済学に対抗するためにつくられた「学問」で 社会情勢を「中心と周辺」や「エリートと民衆」などの「対立」する2極で説明しようとするものです。マルクス主義が上下の垂直対立であるのに対して 社会学は左右の水平対立と言えます。また マルクス主義が1個の2面性の対立と考ているのに対し、社会学ではまったく別の2つの対立なのです。だから 現象論的にはうまく分析・説明をしているように見えて 本質論的にはまったくデタラメな展開になっています。資本主義が危機の時代に突入すると 支配階級はボナパルティズムとファシズム(現在的にはポピュリズム。選挙が一般化し、生産ではなくおカネが中心になったから)とに分裂します。その途端水平対立の社会学では ボナパルティズムとファシズム(ポピュリズム)の対立ですべてを説明しようとなってしまうのです。どちらも支配階級であることには変わらないのにです。
 他方 資本主義が危機の時代にはいると 労働者階級の中からも資本にしがみついて自分だけは生き延びようとする者がでてきます。そのマルクス主義陣営における表現が「超帝国主議論」なのです。つまり 革命抜きに未来社会を語ることによって 民衆に革命の必然性・現実性を訴えることを放棄しているのです。本音は「革命など出来ない」と思っているのだと思います。歴史的に繰り返されてきたこの誤りを 若い世代には絶対繰り返して欲しくないと思います。
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