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『「日出処の天子」は誰か』を読んで


『「日出処の天子」は誰か』を読んで
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 友人に薦められ 大下隆司・山浦純著『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房 1800円 18.8発行)を読みました。友人は 宣伝チラシを見せ「著者の山浦氏は工学部出身だそうで、あまりの畑違いに驚いた」と述べていました。先月号で取りあげた関良基氏は農学部出身です。どちらも 歴史学とは畑違いです。そういう私も理系でした(文系が苦手だったから)。関氏が「専門家の学会にあっては、『学問の自由』があると言いながら、実際には学会の『暗黙のタブー』や、自身が所属する学閥のドグマ等に縛られて、自由に語れないという論点がある。…非専門家であることのメリットを十分に活かし…」と述べているとおりです。学会などに縛られていないから 自由に・個人の見解として真実に立ち向かうことができるのだと思います。
 著者らは 大和朝廷の前に倭国・九州王朝が存在したと主張する古田武彦氏の「弟子」にあたります。私も この見解は 先月号で「『古事記』や『日本書紀』に書かれた天皇制成立のウソ(先行する倭国の存在の抹殺)」と述べたように 正しいと思っています。
 本書の構成は 序章:王朝の交代、「倭国」から「日本国」へ 第1章:聖徳太子と多利思北孤タリシホコ  第2章:金印・卑弥呼、弥生から古墳時代へ 第3章:倭の五王と近畿天皇家 第4章:九州王朝の成立から衰退へ 第5章:日本国の誕生 終章:よみがえる九州王朝 です。テーマは 題の通り 「日出処の天子」は聖徳太子ではなく(いま学校では厩戸王子と教えているようですが、それでもなく)倭国の多利思北孤であることを明らかにして、倭国・九州王朝の存在をよみがえらせ 明治以降(現在も)学校教育を通して信じ込まされてきた「近畿天皇家が唯一の王朝」というウソを暴き 真実の日本古代史を明らかにしようとするものです。
 読んでいてエッと驚いたことが2つあります。1つは 『古事記』と『日本書紀』は一般的には『記』『紀』とセットで語られていますが 両者の関係は 旧辞(昔話)と正史、それとも下書きと清書かと疑問に思ってきましたが 『古事記』は 『日本書紀』や『続日本記』などの書物には一切記載はなく、どうも倭国の書物と同じく「禁書」だったようで 南北朝時代に尾張のお寺で写本が見つかったそうです。なお『万葉集』も 禁書だったようで 奈良時代に偶然見つかったそうです。筆者らは 『古事記』は「一地方豪族の歴史を描いたもの」で 「九州王朝の史料と百済系3史料の一部を切り取り、『古事記』に貼り付け、『日本書紀』を作り上げた」と述べています。『古事記』は一国の正史にするには不備・不十分だという訳です。「国内」事例だけを扱っている『古事記』では 外国資料と突き合わせればすぐにウソがバレてしまうということだと思います。
 もう1つは 縄文人や倭人が船で南米エクアドルに行っていたことが 1960年代にエクアドルの遺跡から出土した土器で明らかになったそうです。縄文文様の土器や北九州(倭国)で使われていた甕棺カメカンと同じものが出土したのです。『魏志倭人伝』の「又マタ裸国・黒歯国有り。復た其の東南に在り。船行1年にして至る可し。」にあたるのではないかということです。これには本当に驚きました。確かに 沖縄から新石器人の遺骨が出土しているように 現代人の最初の新石器人も陸上だけでなく、船で海を渡り世界に広がって行ったと推測されますが まさか縄文人や倭人が1年間も航海できる技術を持っていたとは 思いもよりませんでした。
 先月号で私は 「聖徳太子は 学校で教える厩戸ではなく 成敗された蘇我氏の功績を述べるときの架空名。なお聖徳は倭国の元号です。」と述べました。筆者は「日出処の天子は 聖徳太子ではなく、倭国の多利思北孤だ」と述べています。奈良と福岡の違いがあるので見解が違うように見えますが テーマ・論点が違うからそう見えるのであって 日本国・大和朝廷の前に(7世紀末まで)倭国・九州王朝があったという点は同じです。また 聖徳太子はデッチ上げた架空の人物であるも同じです。筆者は 日本国・大和朝廷によって消された倭国・九州王朝を「よみがえらせたい」という主旨・主張であり 私は 倭国・九州王朝の存在を前提にすれば、近畿天皇家はいつどこから来たのかを明らかにせねばという問題意識です。
 筆者らは 『古事記』『日本書紀』に書かれている記事・物語の多くが倭国・九州王朝の出来事であったことを 1つ1つ丁寧に説明しています。「聖徳太子がいた」といまだに思っている方にとっては 本当に「目からウロコ」だと思います。私は 古田氏系の本もほとんど読んではいませんが 唯一草野善彦著『消された日本古代史を復元する』は読みました。草野氏が「マルクス主義で…」と述べられていたからです。この本は古田氏らが明らかにしたことがすべて網羅されているように思います。一見は百聞にしかずです。ぜひ読んでみて下さい。よって紹介的紹介はしません。
 筆者らは 『万葉集』で「詠み人しらず」とあるのは 倭国の人の詩ウタであることも明らかにしています。例えば「君が代」。「千代」は福岡市の「千代の松原」であり 「さざれ石」は福岡県糸島市の「細石神社」、「岩ほ」は糸島市の鍾乳洞「磐穂」だそうです。近畿天皇家・大和朝廷が必死にかき消そうとした倭国の詩を 明治の長州の「元勲」たちが日本国・近畿天皇制をたたえる「国歌」にしたというのですから これほど笑える話はありません。ウソの砂上に立つ楼閣です。また「日の丸」は「日出処」からの発想です。真実を明らかにすれば 両者ともおシャカです。「君が代」も「日の丸」も 笑ってぶっ飛ばそうではありませんか。
 また 『万葉集』の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の三笠の山は 奈良の若草山ではなく、福岡県春日市の三笠山(現・宝満山)で 「…天の香具山、登り立ち国見をすれば」の天の香具山は 奈良の香具山ではなく、大分県別府市の鶴見岳だそうです。吉野は 当然「吉野ヶ里」の吉野です。
 筆者らは 天孫降臨神話は先祖が最初に福岡県に侵入・上陸したことを明らかにした倭人の伝承であると述べています。一般的には天孫降臨は宮崎県の話とされていますが 『古事記』に出てくる日向峠もクシフル峰も福岡県にあり、福岡県は「この地は韓国に向い…」そのものであると説明しています。また神武東征神話は 近畿天皇家の先祖が瀬戸内海を通って奈良に入ろうとしたが、大阪で妨害され、迂回して入ったことが書かれているのだと指摘しています。そして「戦後史学において神話とされてきた『天孫降臨から神武東征』の説話は、…実にリアルに描かれた歴史的事実であることが明らかになっています。」と述べています。なお 「迂回した」から言えることは 神武は事前に奈良を知っていて、奈良を安住の地にしようとしていた(目的地)ということです。
 私も 大昔の人がまったくの架空話をデッチあげることは不可能だと思うので、この点は正しいと思いますが 問題は では『古事記』や『日本書紀』はどこでウソをついているのかです。私は そういう事実・事例はあったが 倭国の話を近畿天皇家の話にしたように「主語を変えた」のだと思います。つまり それぞれの豪族の先祖の伝承をも 近畿天皇家の話として一本化したのだと思います。
 『古事記』の国生神話には 長崎県の西方にあるあまり知られていない小島が2つ出てきます。明らかに近畿天皇家の先祖は 西方つまり中国の揚子江周辺から来たのです。おそらく『三国志』にでてくる呉王朝の末裔と推測されます。だが筆者らは 神武東征は倭人の行為であるかのように述べています。そして 倭国の話だと言えないものは すべて近畿天皇家の話であるかのように展開しています。しかし 倭国が健在だったとき 近畿天皇家は奈良の一豪族に過ぎません。同じ様な豪族が日本の各地に存在していたのです。神武、崇神、応神と一族の最初の王を意味する神という字がつくのが3人もいるのです。近畿天皇家は それに継体を加えた4族から成り立っていたことになります。
 かつて述べたように 私は 日本古代史の各説の正誤を判定する物差しは 現代人の発生史にあると考えています。血液中にあるミトコンドリアのDNA分析から 日本には9群があることが判明しています。新石器人(クロマニヨン人)、縄文人、琉球人、アイヌ人、弥生人の5群が日本の先住民であり 紀元前500~1000年前に侵出してきて農耕の弥生人を制圧・支配して最初に国家を造ったのが倭人・倭国です。残りの3群は 3世紀に中国の単一王朝形成過程で敗北し 呉、百済、新羅から逃げてきた逃亡王朝の末裔たちです。彼らは 北九州の倭国を避けて 西日本から関東にかけてバラバラに弥生人を制圧・支配してクニを造っていったと考えられます。だが彼らは 倭国を恐れて、国家・京(都・首都)は造れなかったのです。7世紀末までの約400年間、彼らは息を殺して生き延びようとしていたのです。
 倭国は 663年の白村江の闘いで唐・新羅連合軍に敗北し、滅亡へと向かいます。672年の壬申の乱は 近畿天皇家内の争いのように語られていますが 倭国なき後の覇権をめぐる争いであったと思われます。おそらく 国生神話・神武東征説話が最初に書かれていることから呉の末裔が勝ったのだと思いますが まだ全体を制圧する力を持っていなかったので、負けた逃亡王朝の末裔たち(各大王)を豪族・貴族として新たに造る日本国の支配体制に組み入れていったのだと思います。そして各逃亡王朝(豪族)と倭国の出来事を近畿天皇家の話として(つまり主語を変えて)寄せ集め一本化したのが『古事記』『日本書紀』だと見ています。その最大のウソは 「もとから日本にいた」と思わせていることです。そして400年間の話を 倭国の存在を消すために1000年もまのびさせたのです(3世紀以前の真実を書けば最大のウソがバレてしまう)。応神は百済の、継体は新羅の末裔と推定できます。もし 応神が近畿天皇家の一人であるというのであれば 大和から出撃しながらなぜ大和に帰ることができなかったのか説明がつきません。また神武も倭人とすると 東征過程で北九州・宗像沖で何故Uターンしたのか説明つきません。
 倭国の年号(九州年号)は 平安・鎌倉時代以降研究されてきましたが 明治の中頃、政府により「万世一系を否定するものだ」と研究は禁止されたそうです。江戸時代には ポルトガル人によってヨーロッパにも伝えられていたということです。江戸時代の方が明治よりずっと自由だったのです。
 有名な金印は「漢の…」とあり 倭国も中国の冊封体制下にあったと思われますが 620年頃より独自の年号を使っているので 冊封体制から離れた(完全な独立国化)と推定されます。それ故多利思北孤は 中国の皇帝と対等だと言うために、「皇帝」という言葉を使わないで、共に「天子」という言葉を使ったのだと思われます。
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