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改憲阻止闘争について


改憲阻止闘争について
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 今月は06年2月号に掲載した評論の再録です。06年9月号からの評論はブログ「資本主義の終わり論」にすべて掲載しているので、さかのぼって見れますが これはそれ以前のものであり 村上さんから勧められ再録することにしました。

 自民党は [05年]10月28日新憲法草案を発表し 11月22日党大会で採択した。自公政府は 今通常国会で 改憲のための国民投票法案を通そうとしている。ついに改憲攻撃が政治日程にのぼった(階級闘争の課題になった)のです。
 もともと 現憲法をはじめとする現在の政治体制は ブルジョア独裁の一形態であるブルジョア民主主義(議会制民主主義)であって プロレタリア革命でのりこえる対象であります。また資本主義国の憲法は 当然私有財産の護持(資本の自由)をその根本原理としています。だから 権力の弾圧場面では 現憲法に規定された人権を武器に使うことはあっても 現憲法を絶対順守せねばならない対象と考えてきたことはありません。
 特に 9条の軍隊と戦争の放棄という画期的な条項を持っていたとしても 直接民主主義が一つもないという問題だけでなく 天皇問題(戦争責任と天皇制の存続)および強制連行などで在日を強制した在日朝鮮人・中国人の排除という根本的誤りをもっています。
 現在 政府・支配階級が憲法改正を主張する最大の根拠は 戦争問題です。帝国主義がその発展ゆえに過剰生産に陥り「兄弟間の死闘」に突入 つまり軍隊・戦争なくしては帝国主義が自らの利権・利潤を維持できない時代に突入したが故に 戦争放棄をうたった現憲法が桎梏になってしまったのです。だから 反戦闘争の一環としての改憲阻止がその主要な論点でありますが それだけではありません。憲法とは 国の基本法であって 統治の基本枠を示したものと言えます。だから 憲法を変えるという問題は 統治形態の転換の問題と、それ故革命の問題の2つの面から考える必要があります。
 資本主義社会 つまりブルジョア独裁の統治形態は 基本的にはボナパルティズムか議会制民主主義のどちらかの形態です。例外的には 封建制からの移行期の絶対王制(一般的には封建制の最後とみますが)と ブルジョア支配の崩壊時のファシズム体制という2つの過渡的形態もありますが(エンゲルスは ブルジョア支配の一般的あり方は議会制民主主義であって ボナパルティズムも例外と規定しています)。ボナパルティズムか民主主義かの差は その権力の性格・成立過程の問題です。封建領主をブルジョア革命で打倒して資本主義を樹立した場合は 個々のブルジョア同士の力比べとしての議会制民主主義であり 特にそのブルジョア革命に労働者民衆を動員したときには 民主主義はより広いと言えます。他方 労働者民衆に対立・対決してブルジョア支配を維持している場合は 支配階級の「総団結」としてのボナパルティズムというわけです(その形式は一人の独裁です)。
 資本主義が戦争でしか生き延びれない帝国主義では ボナパルティズム型の国家体制(議会制民主主義に独裁を加味した大統領制)が一般的になります。なぜなら 戦争とは労働者民衆に「命を差し出せ」ということであり それは各自の生存・生きるという根本的権利を差し出す対象がいるということです(理念では各自の判断になります)。
 だから 統治形態の根本に 労働者民衆に対する国家権力の暴力の問題があるのです。

 さて 現にはじまった改憲攻撃については 次のように言えます。
 第1に 現憲法は 第二次大戦という帝国主義間戦争の敗北の結果成立しました。つまり 第一次大戦で敗北しながら再び第二次大戦の戦争放火者として登場したドイツの例があるので 連合国・米帝側は 日本に二度と戦争させないために それまでの軍隊を軸とする戦争体制の解体と、戦後の資本主義の枠内での再建として 統治形態の転換を押しつけました。日帝も 資本主義体制を護持するにはそれしかないと 天皇制の存続を条件に積極的に受け入れたのです。つまり 日帝に二度と戦争させない保障が 米軍の今も続く永久的な駐留と 統治形態の天皇制ボナパルティズムから議会制民主主義への転換(その法的表現が現憲法)です。米軍の駐留は 講和=独立後は 占領から安保条約へと形を変えて今も続いています。他方 帝国主義によるアジア支配という面では 沖縄の分離による米軍基地化です。
 この転換は 国内階級対立の結果の選択ではなく 帝国主義間戦争での敗北の結果 他帝との関係で「自分からは戦争を仕掛けません」と約束するために 採らざるをえなかったという訳です。「国内の人民への妥協」だとか言われていますが 当時「一億総懺悔」と言われたように 国民は 非戦意識を広めてはいったが 戦争責任の追求―権力問題(革命)とは考えていません。むしろ 「上からの民主化」と言われるように そこを出発点にして 民主主義はその後国民の中で定着していったのです。
 91年湾岸戦争から 帝国主義間争闘戦が軍事を使った段階に突入し しかも他帝・米帝が日帝に参戦を促すようになり また日帝も 最終的には97年アジア通貨危機でアジア勢力圏化の野望が潰され 侵略軍隊なしでは勢力圏化できないことを思い知らされました。日帝自身が 侵略軍隊の保持を死活の問題として熱望しているのです。
 だから 他帝・米帝との関係では 侵略軍隊の保持=改憲は 米軍のコントロール下という条件つきではあるがクリアされたと言えます。しかし 国内的には・階級関係としてはこれからだということです。またアジアとの関係では 当初的には反日・嫌日が広がったとしても 将来的には今米帝がイラク等でやっているように軍隊でねじ伏せればよいのだと 日帝は考えているのです(小泉の靖国参拝強行の意図)。
 第2に 日本のブルジョアジーは封建制打倒のブルジョア革命をやっていないということです。だから 日帝の統治形態は天皇制ボナパルティズムしかないのです。
 明治天皇制政府を樹立した戊辰戦争は 薩長土の下層武士団が主力です。ある意味で封建勢力同士の戦いです。封建勢力によって成立した明治天皇制政府が積極的に資本主義を押し進めていくのは 世界的な時代の流れであって 純粋国内(階級)問題ではありません。政権成立の初期に神祇官をつくったことにその封建性が示されています。他方 尊王攘夷を唱えていたにもかかわらず政権成立後一転して開国に転じますが それは列強から商品市場として貿易を迫られ攘夷など不可能だったからです(下関事件など)。
 ブルジョアジーが労働者民衆に「資本家の俺についてこい」と言えないのです。つまり自信がないのです。一般的には 議会制民主主義でも帝国主義戦争はやれます。かつて小沢が また今民主党が主張している 憲法は変えないで安保基本法を制定する案がそれです。イギリスもフランスも議会制民主主義の形態で戦争をしています。それは彼らがブルジョア革命をしているからなのです。他方 ブルジョアジーがブルジョア革命をしていない日帝は 封建制の遺物である天皇制をもってこないと戦争が出来ないのです。
 例えば イデオロギーの面でも アメリカやイギリスは 現在のイラク侵略戦争を「対テロ戦争」と皆のために必要な戦争だ つまり国民に自分のための戦争だと押し出していますが 日帝は 「国際貢献だ」と他人のための戦争としか押し出せないのです。論理矛盾であると同時に 日本のブルジョアジーは トラの威を借るキツネでしかないのです。かつての戦争も「天皇のために」でした。「自分のための戦争」と押し出すと 労働者民衆が権力者の思惑を越えて自主武装していくのではないかと不安になるのです。実に脆弱そのものです。
 つまり 天皇制ボナパルティズムに統治形態を変えない限り 日帝は自らの戦争に労働者民衆を動員することはできないのです。改憲攻撃は 侵略戦争をするためですが それは統治形態の転換としてあるのです。そしてその攻撃は 脆弱性と論理矛盾ゆえに[天皇制を掲げた]凶暴な民衆抑圧以外にないのです。
 第3に だから 帝国主義の戦争反対を中心としながらも 統治形態の転換(社会の基本的あり方の大転換)の攻撃として捉え 全面的に対決することが問われています。改憲阻止闘争の先にプロレタリア革命を見すえて 改憲阻止闘争を闘うということです。
 改憲攻撃とは 日帝権力・支配階級が「プロレタリア革命の日」として新憲法賛否の投票日を設定するということです。国会議員選挙で政権党を残敗させたとしても それは首相つまり行政権力のトップの交代しか意味しません。しかし新憲法の発議は 国会が国民に向かってするのですから 新憲法に反対と投票することは 国会を否定・拒否したことになります。つまり 労働者民衆は 立法府に対して 間接民主主義(代議員による議会制)にNOを突きつけ、直接民主主義(民衆の自己決定権)を要求したことになります。その形態は 投票に行ってNOと書くことから、投票そのものをボイコットするなど その時の階級の力関係で色々あるとしても 国会も政府も否定・拒否した労働者民衆の自己決定権の行使として それは行われるということです。
 現憲法は 敗戦後の戦後革命期に制定されました。現在と対比すると 戦後は 人民の闘いはものすごく高揚していきましたが その闘いは飢餓状態の中で「食わせろ」という闘いで 革命の問題は完全に欠落していました。現在は逆に 戦争にすでに突入しているにもかかわらず階級の決起はまだまだ小さく 他方闘いは 70年闘争で自己解放・自己権力・人民の武装、90年天皇代替り闘争で日帝権力自身の問題と 闘いのイデオロギー的骨格はつくってきたと言えます。だから 帝国主義の崩壊的危機(発展の行き詰まりと資本家同士の潰し合い)ゆえに決起してくる労働者民衆と この革命を実現できるイデオロギーとが結合できたら 革命は可能だと言えます。そして今や その日・その場を 日帝権力・支配階級自身が設定しようとしているのです。
 レーニンが 革命情勢のメルクマールとして 支配階級が今までどおりにはやっていけなくなったことと労働者民衆が活動的になっていることを上げていましたが 前者は改憲を言わざるをえなくなったことではっきりしています。問題は後者なのです。
 確かに一見それはなかなかの様に見えますが 先に述べたように ブルジョアジーの方に労働者民衆を納得させる論理がなく もてる論理は他人依存だということです。しかも戦後民主主義のもとでかつ資本主義の極端な発展(生産ではなく投機の前面化・全面化)の中で 本来類的存在である人間がバラバラにされ 個人主義と個人の自由が当り前化しています。誰もが国家・資本のために命が捨てられるか!です。だから そこに支配の軸としてデタラメな封建制の遺物を持ち込んだら 誰もが納得できず、感覚的にこれは変だという気持ちになります。この気持ちを闘いに転化できるかどうかということです。しかも 他民族殺戮の侵略戦争への強制的な動員と、全面的に強権的で凶暴な民衆抑圧として登場してくるのですから 必ず労働者民衆は自主的に決起していきます。もちろん 自分の弱さを強者に頼りより弱者を威圧するというフアシズム的・ボナパルティズム的[・ヘイト的]あり方も拡大しますが。
 日本のブルジョアジーは脆弱だと述べましたが 労働者民衆の闘いで一つでもブルジョア支配の破綻をつくりだせたら 一気に革命情勢に突入するのです。
 よって 「○○権があれば」とのりこえるべき憲法の条文・欠陥を部分的にあげつらうことで 権力・支配階級の改憲攻撃を尻押しするのではなく 「現憲法は問題点だらけだが 改憲攻撃は戦争をするためであり、同時に戦前のように天皇制の体制に戻す攻撃だから 断乎反対する」と闘うべきだと思います。あえて言えば 憲法擁護からであっても改憲攻撃に反対し続ければ 戦争だけでなく統治形態転換の攻撃と対決するものになっていかざるをえないのです。憲法改悪反対・改憲阻止闘争として 広く共に闘っていこうではありませんか。
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