FC2ブログ

記事一覧

日本古代史について

日本古代史について
―――――――――
 隠岐芳樹氏が『未来』に「多くの国民が天皇制を支持する根拠である万世一系の虚偽を徹底的に暴露するために…わかりやすいかたちで発表されることを期待する」と書かれていたので …。
 私が日本古代史に関心をもったのは90年代中頃に『聖徳太子はいなかった』を読んで以降です。だが 邪馬台国は近畿なのか九州なのかなどいろいろな点で対立した見解が並立していて 結論めいたものはもてませんでした。もちろん マルクスの唯物史観の定式にでてくるアジア的生産様式の理解をめぐっては スターリンが奴隷制の一種(全般的奴隷制)と言ったこともあって、混乱していて いずれ解明しなければとは思っていましたが。05年『イブの七人の娘たち』(ブライアン・サイクス著)と『三重構造の日本人』(望月清文著)を読んで 古代史を考える基本視点(各説に対する正誤を判断する基準)はこれだ!と思いました。だから私の見解は 歴史資料を分析して得たものでもなく、またマルクスやエンゲルスの論に依拠したものでもなく あえて言えば自然科学(人類学)に依拠して取捨選択したものです。

 人類学者のブライアン・サイクスは 血液中のミトコンドリアDNAを分析して、現代人の発生史を明らかにしました。彼の結論によると 北京原人やジャワ原人などの原人は言うにおよばず、旧人のネアンデルタール人も現代人の直接の祖先ではなく 現代人の全ては15万年前にアフリカに生まれた一人の女性の子孫であって その子孫が10万年前にアフリカを出てパレスチナで生活を続け 5万年前から枝分かれしながら食料を求めて全世界に広がっていった。現代人は ミトコンドリアDNAの違いで35の群に分かれ ヨーロッパには7群が存在します。7群のうち6群は 4万5千年前から1万5千年前の間に分岐した狩猟民(クロマニョン人が最も古い)やその末裔である遊牧民および狩猟+採取民で あとの1群は1万年前に中東で生まれた最も新しい群で農耕民です。この農耕民は 温帯の大きな川や海に沿って広がっていった。現代人は ヨーロッパのほとんどの地域で 8割が狩猟民で2割が農耕民という割り合いで混在しているそうです。この現人類の発生史は いまや幾つかの本で紹介されています。
 日本人については 東アジアに存在する11の群のうち9つの群が見つかっています。アイヌ人と琉球人は同じ縄文人と言われてきましたが 1万2千年前に、つまり日本に移住する前にすでに分かれていたそうです。中央アジアにいた狩猟+採取民のモンゴロイドが大きく2つに分かれ 1つは東へ東へと広がっていき そのうちの一部はベーリング海峡をこえて南北アメリカの先住民になった。もう1つは南東に広がっていき西太平洋の島々にも移り住んだ。つまり 前者の一分岐がアイヌ人であり、後者の一分岐が琉球人です。もちろん本州の縄文人も前者の一分岐と推測されます。他方 1万年前に中東で生まれた農耕民の東に向かった部分は インドではドラヴィダ族となり さらに長江(揚子江)流域へと広がり 農耕(水田耕作)を広めていった。弥生人はこの末裔です。
 なおミトコンドリアのDNAは 母親のだけが受け継がれ、1万年に1ヶ所変化するそうです。また狩猟+採取民は 食料調達では遊牧民や農耕民と違って、どの環境にも対応できるので 世界中に広がりました。

 ところで ほとんどの人が学校で 四大文明としてナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河の各流域で文明が発生したと習ってきましたが 90年代中頃に4千年前の黄河文明に先だって 他の3つの文明と同じ5千年前に 長江(揚子江)文明があったことが明らかになりました。問題は この4つの地域はすべて水田耕作の農耕民が広がっていった地域だということです。以上より次の結論が導き出せます。<5千年前に地球が寒冷期に入り、狩猟民の末裔である遊牧民が家畜の牧草を求めて農耕民の地に侵入して、農耕民を征服・支配することで 支配・被支配の関係=階級対立、つまり国家が生じ 文明が発生した>ということです。
 そもそも狩猟民・遊牧民と農耕民とでは 生活・生存の場が丘陵と湿地帯とまったく異なります(狩猟民・遊牧民が利用しない湿地帯で生きようとして農耕民化した)。狩猟民・遊牧民も農耕民もそれのみでは 原始共産制・氏族社会のままで、支配・被支配の関係=階級対立は生じません。例えば 狩猟民・遊牧民同士が衝突したときは 狩猟民が必要とするのは家畜と牧草であって、奴隷制のように人間ではないので 負けた方は殺されました。また 農耕民が狩猟民・遊牧民の住む丘陵に進出することはありませんし 農耕民の人口が増えて水田が手狭になったときは 戦争するのではなく、一部が新しい土地での新田開発に向かったと思います。だから論理的に考えると 狩猟民・遊牧民が農耕民を支配するときにのみ支配・被支配の関係=階級対立が生じるのです。もちろんこれは始原の話であって 一旦支配・被支配の関係が生じると、周りの皆が知るわけですから 農耕民を見習って定住し農耕を始めた狩猟+採取民を、別の遊牧民が征服・支配することも起こります。おそらく黄河文明はこれだったと思います。しかし 狩猟民と農耕民の生きるための文化の違いは決定的に重要だと思います。この初めて階級対立が生じた社会こそ アジア的生産様式(王一族が民衆を支配し徴税する、土地の所有権は存在しない)と言えます。エジプトのピラミッドは奴隷が造ったと言われてきましたが 今世紀のはじめ人夫が給金をもらっている壁画が見つかり、奴隷ではなかったことが明らかになりました。つまり 古代エジプトも奴隷制ではなくアジア的生産様式だったのです。
 これまで 階級分裂・階級対立が生じるのは生産力が拡大したときか、共同体同士の衝突かと議論が繰り返されてきましたが 農耕民による生産力の増大は必要条件で(狩猟民では生産力は増大しない)、共同体同士の衝突(遊牧民による農耕民の征服)は十分条件だと言えます。だから必要条件および十分条件がないところでは インカのようにたとえ高度な文明を築いていたとしても 階級分裂・階級対立のない原始共産制・氏族社会のままです(南北アメリカの先住民は4群で、すべて狩猟+採取民です)。また唯物史観の定式は マルクスが述べた「原始共産制→アジア的生産様式→奴隷制→封建制→資本主義→」が正しくて スターリンの説「原始共産制→奴隷制→封建制→…」は誤りだったことが明らかになりました。

 以上の基本視点を押さえて 日本古代史に入ります。
 ブライアン・サイクスの研究より 日本には9群あることが判っていますが これまでの理解ではモンゴロイドの3群(アイヌ人、琉球人、縄文人)と農耕民の弥生人の4群しかわかりません。望月清文は 実にユニークな研究で 日本にも狩猟民のクロマニョン人がいたことを明らかにしました(研究・分析方法の紹介は省略します)。世界的にはポルトガル、スカンジナビア、そして日本に つまりユーラシア大陸の端っこにクロマニョン人の血をひく人がいるそうです。題名の「三重構造」とは 狩猟民のクロマニョン人、狩猟+採取民の縄文人、農耕民の弥生人を指します。日本には縄文人と弥生人がいたというこれまでの説(二重構造論)は訂正されねばなりません。よって この5群が日本の原始共産制・氏族社会の先住民といえます。おそらく 農耕に集約される形で混在・混血していったと思われます。
 9引く5は4。つまり4群が 先住民のいる日本に後から進出・侵入してきたとなります。百済、新羅、呉(江南)はすぐに思いつきましたが(呉音読みがある) もう一つが判りませんでした。吉川弘文館の『世界史年表・地図』に1~3世紀の日本は<倭>と書かれています。だから 百済、新羅、呉、倭の4群が 5群の先住民がいる古代日本にやってきて 先住民を征服・制圧して支配者になった人たちだと言えます。
 ところで 『古事記』や『日本書紀』の記述には 神武東征が宮崎から出発したと呉(江南)の末裔であること、また応神が福岡から近畿に進出したと百済の、そして継体が経歴もなく滋賀(日本海側)から出てきたと新羅の末裔であることを匂わしていますが(地理的に考えてそう言えます) 倭については一言も書かれていません。福岡・志賀島で発見された西暦57年に中国・後漢が贈った「漢倭[委]奴国王印」(どう読むか議論がありますが)という金印が存在するのにです。また 2世紀に実在した「卑弥呼」の記載もまったくありませんし 中国に入貢した「倭の五王」もどの天皇にあたるかといろいろ言われていますが、一致する天皇はいません。実におかしな話です。

 2011年『消された日本古代史を復原する』(草野善彦著)を読み この疑問が解決しました。草野によると 紀元前後、九州にあった倭国は663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗北し 倭国の崩壊をついて奈良にいた豪族がとってかわり 大和朝廷が成立したということです(ちなみに壬申の乱は672年で、次は誰かをめぐる争いと推測されます)。だから 当然邪馬台国は九州説ですが これまでの九州説は発祥は九州だが奈良に東進して大和朝廷をつくったというもので 「大和朝廷一元史観(大和朝廷以外の王家は存在したことがないという考え)」という点では奈良説と何ら違いはなく 誤りだとしています。そして大和朝廷一元史観は 天皇制を擁護するプロパガンダにすぎず、真理を追求する学問ではないと述べています。
 以上を明らかにするために草野は モーガンやマルクスの研究から「古代国家は 氏族社会の原始『都市』を基盤として、都市国家として誕生する」と明らかにして 都市国家という限り「都城・京師が存在しなければならない」のに 『日本書紀』などによれば 大和朝廷は694年に初めて藤原京を作り、それまでは天皇の代替りごとに遷宮を繰り返していたのだから そもそも国家ではなかったと説明しています。同時に 倭国の都城・京師(首都)は「都府楼」という地名がいまも残る太宰府であったことも明らかにしています。また 中国の『旧唐書』東夷伝は 7世紀までを「倭国伝」、8世紀から「日本国伝」と記しており 王朝が交替したことを示していると説明しています。
 私は 7世紀末に倭国がほろび日本国に交替したという説は史実・真実だと思います。その上で モーガンの研究はアメリカの先住民である狩猟民を対象としており 現人類は狩猟民が8割を占めているのですから一般的傾向としては正しいと言えるのですが 農耕民が多数を占める社会の説明にあてはめると、間違ってくるのではと思います。
 3世紀頃に百済、新羅、呉からきた人たちは 倭国が存在するので国家は形成できなかったが 中国の統一国家形成過程で敗北し逃げてきた王一族なので、もともと支配や国家を知っており 倭国の勢力圏外に定着し、すぐに弥生人を征服してクニをつくっていったのではと思います。有名な埼玉県稲荷山古墳から出土した朝鮮式の鉄剣(七支刀)に記された銘文より 関東にも大王がいたことは明らかなようです。
 草野の説明によれば 日本での水田耕作の開始は 北九州で紀元前1400年頃で 近畿地方では紀元前500年~400年頃です。中国の『漢書』地理史に 倭人が水田耕作を許容したのは紀元前1000年頃と記しているそうです。他方 倭国と中国との交流は『論衡』に「成王の時[周代 前1000年頃]、越常、雉を献じ、倭人暢を貢す」とあり また朝鮮の『三国史記』には「(前50年頃)倭人、兵を行ねて、辺を犯さんと欲す」とあるそうです。
 だから日本古代史は 3500年ほど前に農耕民(弥生人)が北九州に到来して水田稲作がはじまり 1000年もの長い年月をかけて徐々に近畿地方から東海・関東へと広がっていったと思われます。そして3000年ほど前に 南方モンゴロイドの倭人が北九州から朝鮮半島南部の海岸地帯に進出・侵入し 農耕民(弥生人)を制圧・支配して倭国を築いていったと思われます。その後3世紀頃に 百済系、新羅系、呉系(の王家の一族)が 九州にあった倭国を避けて、瀬戸内や日本海沿岸そして奈良に逃げてきて 同じく農耕民(弥生人)を制圧・支配してクニを築いていったと思います。
 ちなみに 『古事記』の国生み神話は 淡路島、四国から始まって 終わりが「知詞島」と「両児島」です。知詞島は長崎県の五島列島で 両児島は更に西にある男女群島といわれていますが、ほとんどの人が名前すら知らない小島です。江南(揚子江口)から真東に向かって船を進めると 実は最初にこの島にぶつかります。さらに東に進めると熊本です。だが熊本は倭国・太宰府のすぐ南にあり、逃亡先=安住の地にはならないので 阿蘇の南を通って山越えし宮崎に向かったと思います。山を越えた所の地名は高千穂で 呉の敗残一族の最初の安住の地が宮崎だったのです(宮崎は九州で古墳が最も多い。天孫降臨神話)。更に呉の末裔は 倭国から遠く離れたより安全な地を求めて、再び舟を漕ぎ出します。神武東征がその行程だったと思われます。神武一行は北九州でUターンしたとなっていますが それは陸添いに進んで行って、倭国の圏内に入ってしまい あわてて向きを変えたことと推測されます。よって天皇一族は呉の末裔と推定されます。中国で呉が滅亡したのは280年です。

 『古事記』『日本書紀』は 倭国の崩壊後、新たに王朝を形成した大和朝廷が 自らの王朝(支配)の正当性を言うためにデッチ上げたものです。その手口は 徹底して倭国の存在を隠し(抹消し)ながら、自分たちはもとから日本にいたとウソをつき 中国に知られている倭国の歴史と各王族(豪族)の昔話や事件を脚色・改竄し、切り貼りしたものだと思われます。そして草野は 蘇我氏について 倭国の近畿監視官であったとしていますが 『日本書紀』に国書(国の正史)が蘇我の屋敷で燃えたと書かれているので、正しいと思います。国書が王宮ではなく臣下宅に在ること自体ありえない話です。また 蘇我氏を成敗したのは倭国自身で 蘇我が倭国本国から自立しようとしたからではないかと述べています。『日本書紀』等は 天皇一族と同格であった諸王家(大王)やその諸王家を監視する役であった蘇我氏らを すべて臣下として記しています。
 『旧唐書』日本国伝の冒頭に「日本国は倭国の別種なり」と書かれているそうで 703年に使者を派遣した日本国は これまで中国と交流していた倭国とは別国家だと述べています。さらに 『日本書紀』推古紀には「大和朝廷の中国交流は隋をもって始めてとする」と書かれているそうです(607年の小野妹子の派遣をさしますが まだ倭国が健在なので、正式な国の使者とは中国は見ていなかったそうです)。だからそれ以前の倭[委]奴国も卑弥呼も倭の五王も大和朝廷でないことは明白です。
 「天武の詔」に「ここに天皇詔りたまひしく、『朕聞きたまへらく、諸家の齎モタらす帝記及び本辞(旧辞)、既に正実に違ひ、多くの虚偽を加ふ』といへり。今の時に当たりて、其の失を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基コウキなり。故これ、帝記を撰録し、旧辞を討覈トウカクして、偽りを削り、実を定めて、後葉ノチノヨに流ツタへむと欲オモふ」と書かれているそうです。これは『古事記』『日本書紀』を編纂する目的を記したものですが 『記』『紀』以外に「諸家の帝記と旧辞」があったことが判りますが 何故か『記』『紀』以外は一冊も残っていません。しかも邦家(大和朝廷)自身の帝記と旧辞が出てこないだけでなく 諸家の帝記と旧辞で自分たちの歴史(帝紀と旧辞)をつくろうと言うのですから 実におかしな話です。
 『続日本紀』の708年(和銅元年)の改元大赦の記事に「山沢に亡命して禁書を挟蔵し百日首モウさずんば、罪を服すること初めの如くす」とあるそうです。禁書をもって逃亡しているものは、禁書をもって自首すれば罪は問わないというものです。つまり 倭国をはじめとする諸王家の帝記と旧辞(=禁書)はそうやって集められ すべて破棄されたと推測されます。いやはや何とも驚きです。まさしく大和朝廷の秘密保護法で 「民衆には天皇一族の正体を知らしめるな」です。
 「天武の詔」に「其の失を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす」とあります。つまり 天皇一族の正体(出自)がバレれば、幾年もしないうちに天皇および大和朝廷は滅亡すると 危機感を露にしています。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント