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『資本主義の終焉、その先の世界』を読んで

『資本主義の終焉、その先の世界』を読んで
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 榊原英資・水野和夫著『資本主義の終焉、その先の世界―「長い21世紀」が資本主義を終わらせる』(詩想社新書 2015.12 920円)を読みました。15年1月号で紹介したように水野が「資本主義の終焉」と言うのは当然ですが 「ミスター円」と言われた榊原も「終焉」と言っているのかと意外に思い、買いました。
 本書は3部構成で 1部は水野が「資本主義がいま、終わろうとしている」、2部は榊原が「パラダイム・シフトを迎えた世界経済、日本経済を読む」とそれぞれの説・論を展開し 3部で水野と榊原の対談「資本主義はどこに向かうのか」が載せられています。なお まえがきは榊原が、あとがきは水野が書いています。
 「私たちはいま、歴史的な大転換を目撃している!! 『より早く、より遠くに、より合理的に』という近代の行動原理で展開してきた資本主義がいま、限界を迎えている。グローバリゼーションの進展によりフロンティアは消失し、先進各国は低成長時代に入った。もはや資本を投資しても利益を生まない超低金利が長期にわたって続く『利子率革命』が先進国の大半で進行し、各国の中間層は破壊され、国民国家は『資本国家』に変貌するに至っている。はたして、終局を迎えた資本主義の先には、どの様な世界が待っているのだろうか。ポストモダンの新潮流を読み解く。」と 本書の推薦文は書いています。
 水野・榊原の両氏とも「資本主義がいま限界を迎えている」という認識は同じです。水野は 「長い16世紀」を例にあげ超低金利時代はシステム[体制]の転換期であることを明らかにして 今回のゼロ金利となる道筋は1971年のニクソン・ショック[ドルの金兌換停止]によって敷かれたと述べています。つまり 貨幣が価値の裏付けを失った(貨幣そのものが架空になった)のです。他方、榊原は 先進国を中心に世界の経済状況を図表にして論証しています。私たち的に言えば経済分析・情勢分析にあたるものですが さすがと思いました。図表は 水野が11図で、榊原は31図です。「先進国の肥満度ランキング」や「平均寿命の世界ランキング」など経済ではあまり扱われない図表も載っていますが 今回は純経済の図表を3つ転載します。[図表は省略します]
 だが「その先の世界」のイメージは両氏で異なります。水野は 資本主義はいま終わろうとしているが、資本主義にかわる新システムが見えてこないから 数世代かけてゆっくりと考えながら変えていくしかないと述べ 榊原は 江戸時代は前半の150年間は高度成長で 後半の100年間はゼロ成長だったが、文学や演劇・相撲など江戸文化が花開いた時で ゼロ成長に至った現在これを見習うべきだと述べています。文化・芸術にシフトしようというわけです。
 資本主義の次に来る社会は 階級対立のない民衆自身が生産と社会の主人公になる共産主義社会です。榊原が「立場」上そうは言わないのは解りますが かって「共産主義だ」「革命だ」と唱えていた多くの人も いまは口をつぐんでいるようです。おそらくソ連の崩壊で共産主義に確信がもてなくなったのだと思われますが それは共産主義・マルクス主義の理解そのものが間違ってたからだと思います。先月号でも述べたように ソ連が行った計画経済(国家統制)は 共産主義のあり方とは真逆のもので 社会・生産における民衆の主人公性を否定するものでした。私たちは 昔からソ連はスターリン主義であって共産主義・マルクス主義ではないと主張してきましたが 一国社会主義論批判や二段階革命論批判として客体的に展開するだけで 革命の主体は民衆だという主体面での批判・検討は欠落していたと思います(それが党絶対化に陥った原因だと思います)。レーニンも『国家と革命』の最後に共産主義社会論を展開していますが 第1段階・第2段階と客体的基準を述べ、主体=民衆のあり方はまったく展開していません。マルクスの『フランスの内乱』や『ゴータ綱領批判』を読んでいるはずなのにです。
 あとがきで水野は 「いまや日本銀行を落城させ城主となり我が世の春を謳歌するリフレ派の経済学者が2003年暮れに著した『エコノミスト・ミシュラン』で『とんでも経済学者・エコノミスト』をやり玉にあげたのです。ワースト1位が榊原英資先生、なんとワースト2位が私でした。今回の本は、そういう意味で最強(リフレ派からみれば最悪)の組み合せで、『中心』に対して『辺境』からの意義[異議]申し立てです。」と述べています。未来社会のイメージについては 両氏とも階級対立の止揚という視点がまったくないので、論としては賛成できません(主張されている面もあるかなとは思います)が 資本主義が終局を迎えていることを明らかにした点は実にすばらしいと思うので ぜひ皆様が読まれることをお勧めします。

 先日ある闘いの現場で『わいわい通信』の読者から「5月号の生産協同組合とはどんなものですか」と「本来の利子生み資本(貸付貨幣資本)と投機資本とを区別して考えるべきだという見解を聞いたのですが、どう考えるべきですか」という質問を受けました。
 前者については 「生産協同組合と言っても内実はいろいろあるので、言葉だけで判断すると間違います。例えば 生活協同組合でも 確かに利用者(消費者)から出資金を募っているので形式的には協同組合の様に見えますが 実際の運営には出資した利用者はまったくかかわっていず、スーパーと何ら変わらないところもあります。党派が運営する所も他とは変わらず 党派外の人は運営にはタッチできないので 協同組合と言っても名ばかりです。そういう所では 労働組合があっても、組合自身が党派の意見を押し付ける場になっており 一般の労働組合よりも労働者の要求は無視されています。また労基法に違反する行為も平然と行われているようです。」と答えました。
 生産協同組合とは 資本家や独占的経営者・運営者がいない企業=職場での在り方で
す。そこで働くすべての労働者=生産者が経営・運営にタッチしているかが基準です。
 後者については 「利子生み資本(貸付貨幣資本)を本来の利子生み資本と投機資本とに分けることは 同一物を2つに分けることであり(そもそも不可能!)、現象論への転落であるだけでなく マルクスが述べた貨幣の3規定(流通手段、貸付貨幣資本、架空の貨幣資本)を、つまり貸付貨幣資本の架空性を否定するもので 投機よりも利子生みの方がましだと主張する資本主義への容認=屈服であり、漫画です。」と答えました。
 利子生み資本(貸付貨幣資本)の架空性を考えます。A社が発行した額面5千円の株が、いま1万5千円で売買されているとすれば 額面の5千円分はA社の設備などの資本材などに対応していますが 差の1万円分に対応する実物はなく、架空です。この架空は 株の配当と一般的利子率との比によって実物より生じる擬制(見なされる、あるいは影)です。例えば 配当が3%で一般的利子率が1%とすると 5000円の配当は150円です。この150円を利子と考えると元金は1万5千円です。だから1万5千円で売買されるのです。国債の場合はもとになる実体(価値物)はなく、生まれそのものが架空になります。しかも 政府は国債発行で得たお金は公務員の給料や道路建設などの公共事業に使い、なくなってしまうだけでなく それらは新たな価値はまったく生みません(有料道路など除く)。にもかかわらず 国債を買った人は毎年(税金から)利子を得ています。
 子供の頃、高額なものが欲しいときは「お小遣いを貯めて買おう」と言われました。この場合貸付貨幣資本に転化することはありません。流通手段としての貨幣の蓄積です。つまり 貸付貨幣資本は何ら新たな価値を生まないのに 利子や配当をむしり取っているのです。当然その分 生産に係わった人のとり分は減っています。しかも 元金すべてではなく、わずかな利子を払わなかっただけで 国家の暴力をも介在させて担保物件を取り上げます。実に理不尽です。
 利子・配当と利鞘は 貸付貨幣資本の2つの儲け場面です。資本はより儲る方で運用しているだけです。ゼロ成長になり、産業資本に投下しても利子・配当がほとんど期待できないから 貸付貨幣資本は投機=利鞘かせぎで儲けようとしているだけです。特に安倍がアベノミクスで株高維持政策をとっているのでその傾向が強いという訳です。貸付貨幣資本の2つの儲け道を区別して云々しても そもそも貸付貨幣資本自身が必要ないものだという批判視点はまったく出てきません。5月号で「いま資産と言われているもののほとんどは この架空の貨幣資本で成り立っています。人間生活にとって必要なものは実物(生産物)であって 架空の貨幣資本ではありません。」と述べた通りです。
 返答後、続けて「民衆も銀行にお金を預けて利子を得ていますが 貨幣資本家と規定すべきなのでか」と 聞かれました。今の普通預金の金利は0.1%程です。たとえ100万円預けても年に千円の利子がつくだけです。つまり民衆は 儲けるために預金しているのではなく 給料や買物の決済として、あるいは安全な金庫として使っているのです。だから民衆の預金は第1規定の流通手段としての貨幣の蓄積に過ぎませんが 当然銀行の方は その集まった(集めた)預金を貸付貨幣資本(金融資本)として使っています。
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