FC2ブログ

記事一覧

1 0 年 た っ て


1 0 年 た っ て
―――――――――――
 06年9月パンフ「『資本論』における資本制生産の崩壊論」を発行し、ブログ「資本主義の終わり論」を立ち上げて 8月で丸10年になります。かつて「石の上にも3年」と書きましたが 10年もたちながら「この理解・説明は正しい」という明確な賛意を得るには至っていません。私の説明の仕方が 皆の問題意識とかみあっていなかったからかなと思いますが 残念です。
 私が明らかにしたことは パンフの表題通り「『資本論』には資本制生産は必ず崩壊することが論証されている」ということです。これまで「『資本論』は未完」とされ 「共産主義社会への移行は推論であって、論証されていない」と言われてきました。確かにⅠ巻24章7節の結論は推論だと言えなくもないですが マルクスはⅡ巻21章3節三できちっと論証しているのです。私はこれまでの通説が根幹で間違っていたことを明らかにしたのです。マルクス理論の理解のコペルニクス的転換だと自負しています。

 昨年から今年にかけてSEALDsの呼びかけで実に多くの若者が決起しました。その影響もあって 参議院選挙では1人区で野党共闘が成立し 大衆闘争まで党派・政党に系列化されていたこれまでの運動のあり方が 乗り越えられようとしています。もちろん その出発および牽引は オール沖縄に示される沖縄での基地反対闘争です。
 問題は 大衆闘争・民衆運動が1つの課題で大同団結して闘われることは正しいのですが 選挙のような全面性(基本政策)が問われる所までそうなってしまうと 一致点は主張されますが、異なる点は主張されません。その結果 民衆の気持ちとかけ離れてしまいます。今回の参議院選挙では 民進党つまり連合を引き入れたくて反・脱原発の主張はかき消されてしまいました。「みなせん(みんなで選挙に行こう)」運動を展開した人たちの期待にもかかわらず 投票率がいつも並(結果として改憲勢力が3分2を占める)という中に そのことは示されていると思います。
 突破の道は 大衆闘争・民衆運動での大同団結をトコトン追求しながらも 他方で党派・政党としての独自の主張と なぜ主張の違う候補を推薦するのかという論理を鮮明にすることだと思います。大衆闘争・民衆運動での大同団結を進展させようとすればするほど党派・政党の独自の主張とこの論理が問われることになるのです。
 資本主義が過剰生産(力)・過剰資本の危機に陥り、もはや資本主義的発展(拡大再生産)が不可能になり にもかかわらず資本はより儲けを出そうと 正規職を非正規職に置き換え、労働条件・労賃をドンドン悪化・低下させ 中流層を解体し民衆のほとんどを貧困層にたたき込んでいます。だから 民衆の多くは現状の変革を望んでいますが 選挙で野党が大同団結すればするほど、根本的変革の主張は後景化しかき消されてしまいます。現体制の部分的修正だけが主張されることになります。これでは 民衆の支持を得ることも、民衆自身が闘いに立ち上がってくることを期待することもできません。
 いま起こっていることは あえて言えば 党派・政党としての「衰退」傾向を民衆運動の大同団結で代替しているということです。もう少し言えば、言い過ぎになるかも知れませんが ソ連崩壊後、共産主義が理想郷とは見えなくなった現在 指し示すべき実例がないのだから、あるいは存在した実例は誤っていたのだから 理論で突破しなければならないのに これまでの他者に依存した理論にしがみつき(自らの理解の再検討を放棄し) 党派・政党としての理論の停滞・「破産」を大衆闘争・民衆運動での大同団結でごまかしているということです。
 先月号で「いまマルクスの理論と言われているものは、第二インターとスターリン主義によって根幹で歪曲されたニセものです」と述べたように マルクスの理論の真髄である『資本論』理解が根幹で間違っていたのです。だから 「マルクス主義は正しい」と主張する党派・個人は これまでの自分の理解の誤りを自らの力で克服することが求められています(もちろん主張を変え、マルクスの理論は間違っていたと思っている人は問題外ですが)。ほとんどの党派・個人がこの努力を放棄しているとしか私には見えません。多くが私の理解・説明に対してスルーしていることに示されていると思います。
 『資本論』は確かに膨大で 一から改めて学習するのは大変ですが 私が明らかにしたⅡ巻21章3節三のみを読み返すことは 文庫本でわずか3、4頁であり(3節全体でも30頁です)、それほど大変ではないと思います。
 Ⅲ巻は マルクス自身がⅢ巻冒頭で「全体として考察された資本の運動過程から生ずる具体的諸形態を発見して叙述すること」と述べているように Ⅱ巻で価値の運動として原理的に明らかにされたことが資本主義では具体的にどう現れるかと現象論の基本視点が展開されており Ⅱ巻21章3節三が理解できない限り Ⅲ巻を正しく理解することは出来ないのです。例えば 宇野弘蔵は Ⅲ巻15章恐慌論でマルクスが「資本の過剰蓄積の詳しい研究は後段で行われる」と書いていることに対し 該当する箇所がないと述べています(実は21章~35章の利子生み資本論をさします)。さらにこの利子生み資本論を信用論と言い換えたことは 自らの誤った理解でマルクスを改竄していると思います。

 改めて、何度目かの繰り返しになりますが Ⅱ巻21章3節三を簡潔に説明します。
 商品の価値Wは C(元あった価値)+V(労賃に支払われた価値)+M(剰余価値)で現されます。これは単品・単体だけでなく商品全体にも当てはまります。国内総生産GDPは、売り上げから仕入れ費を引いた国内総計なので V+Mに対応します。
 マルクスは 総生産を生産財生産と消費財生産との2部門にわけ 生産物がどう交換・流通するか検討しています。この表式を再生産表式といいます。この2部門への区別を 価値で言えば 価値が生産過程に残るか、消費的消費過程に入り生産過程ではなくなってしまうかの違いで 論理的にON・OFFの2部門しかありません。
  W1生産財=Ⅰ(C+V+M)
  W2消費財=Ⅱ(C+V+M)
 これは今年度の総生産です。この総生産物がどの様に交換・流通し次年度の再生産の配置につくかをみます。消費財であるⅡ(V+M)は Ⅱの内部でⅡの労働者と資本家との消費に回ります。生産財であるⅠCは 原材料としてそのまま次年度のⅠCなります。だからⅠ(V+M)とⅡCが部門間で交換されねばなりません。交換するⅠ(V+M)とⅡCとの比較は 3つの場合>、=、<が生じます。=の時は Ⅰの資本家と労働者がⅠ(V+M)に相当するⅡCすべてを消費するとなります。同一規模の生産が繰り返されるので単純再生産と言います。資本主義では偶然をのぞきありえません。Ⅰ(V+M)>ⅡCの時は ⅡCのすべてと交換してもⅠ(V+M)にはあまりが出ます。そのあまりは 生産財ゆえにⅠの拡大にまわすことができます。拡大再生産と言い 資本制生産の正常な(通常の)状態です。Ⅰ(V+M)<ⅡCの時はⅡCにあまり、つまりⅡに売れ残りがでます。Ⅱのあまりは消費財なので 在庫形成しかありません。これが過剰生産(状態)です。
 問題は 資本主義が正常な(通常の)状態で拡大再生産を続けて行くと なぜ正常な状態が続かないで、過剰生産に陥るのかです。マルクスはその根拠として「Ⅱにおける蓄積が、Ⅰにおけるよりも急速に行われる」からと述べていますが 実はその証明はしていないのです。『資本論』で唯一論証していない箇所です。ここで多くの人が混乱し、間違いに陥っています。それは 拡大再生産表式を数年間計算すれば解が得られるという誤解で 私も初めはその間違いに陥りました。
 マルクスが書いている例で説明すると
 Ⅰ:4000C+1000V+1000M
 Ⅱ:1500C+ 750V+ 750M
 この再生産表式の各々の数値は 国によっても時期によっても異なりすべてが変数です。V対Mの比つまり搾取度だけがⅠ、Ⅱで同じです。ここでは1対1です。だから ⅠCとⅡCとの比も、ⅠとⅡの有機的構成も異なります。Ⅰの有機的構成は4対1で、Ⅱは2対1です。しかし先にみたように Ⅰ(V+M)とⅡCとの交換・比較が問題なのですから その他の数値は何であっても問題は生じません。
 いまⅠMの半分500が拡大にまわされるとすると(10%の拡大) 500MはⅠの有機的構成にしたがって400Cと100Vに分かれ、それぞれ追加されます。
 Ⅰ:(4000+400)C+(1000+100)V で次年度の生産が行われます。
 このとき ⅡCと交換されるⅠ(V+M)は 1000V+500M+拡大分の100Vなので ⅡCの次年度必要量は1600です。
 ⅠCを4000に固定して、ⅡCの数値を色々変えていきます。次年度必要なⅡCはⅠより1600と導き出されたので 今年度のⅡCが1200の時は400の拡大が必要であり 1300だと300 1400だと200の拡大が必要です。それぞれⅡは 33%、23%、14%の拡大で Ⅰの10%拡大より大きく Ⅱの方が急速に拡大する傾向をおびていると言えます。ここの理解で重要なことは Ⅱはその%を必ず拡大するではなく、その傾向をおびるということです。計算は 価値法則=価値通りの交換がおこなわれるための条件ですが 現実には資本家がするため 傾向をおびると表現されています。つまり 価値法則によってⅡを急速に拡大させようとする力が働くということです。
 過剰生産状態の検討に入ります。<の場合で Ⅰ(V+M)とⅡCの交換でⅡCにあまりが出るときです。当然Ⅱは売れ残り、倉庫に商品が在庫として積み上げられて行きます。そして ⅡはⅠからⅡC分まるまるの生産財を入手できないので 当然Ⅱの生産は原材料が不足し部分的にストップします。だが これは貨幣がなく生産物・商品を価値のみで検討した場合ですが 価値の堆積物である貨幣があると違った展開になります。
 例えば ⅡCが1800とすると Ⅰ(V+M)の必要量は1600だったので 200が売れ残り 1800だった生産規模は1600に減少します。拡大ではなく縮小です。ところが Ⅱの資本家が200の追加貨幣を持っていたら この貨幣200でⅠの拡大分から生産財200を追加で買うことができ 次年度も1800の生産が可能となります。
もちろん200の商品在庫をかかえたままですが。この時Ⅰは 500のうちの200はⅡに売ったので 拡大は300(6%)となります。だが貨幣200が入ってくるので蓄積は10%のままです(拡大と蓄積の違いは概念的違いです)。
 ここで注意すべきは ⅡCが1600をこえて1800になるのは 価値法則の作用ではなく Ⅰが10%拡大するならⅡも10%拡大したいとする資本のエゴの結果です。
 流通手段としての貨幣は 生産物・商品が価値通りに売られたときは もと持っていた(最初に流通に投入した)資本家の元に帰ってくるので 論理的にはあってもなくても同じなのですが 現実は時間が作用するので 流通手段としての貨幣の必要量は 交換される商品総量と同一貨幣が何回取引に使われるか(貨幣の回転数)で決まってきます。それを越える貨幣が 通常時には使われない退蔵貨幣になり これが追加貨幣の原資です。
 貨幣がなければ 価値法則によって生産が部分的に停止しなければならなかったのに 貨幣があると生産が続行できることになります。価値法則の制限が突破されるということです。だがこの状態は Ⅱが毎年新たな追加貨幣を投入しなければならないという事態を引き起こします。だから 退蔵貨幣を追加貨幣として使いきったとき生産はストップします。同時にⅡが投入した追加貨幣はⅠに貯まりますが Ⅰにはその使い道はありません。Ⅰでは過剰(貨幣)資本状態が生じるのです。引き延ばされた過剰生産(状態)=バブルから一転して生産停止・破壊が生じます。これが恐慌・破局の論理的メカニズムです。現実(Ⅲ巻・現象論的)には 追加貨幣を借りようとする人が銀行に殺到して利子率が高騰し 利子が払えなくなり倒産に至ります。そして 1資本が倒産すると 手形=信用の連鎖で成立している資本制生産は 次々と連鎖倒産に入っていきます。
 恐慌・破局の後、過剰な資本ⅡはⅠに移り、新たなⅠとⅡとの比率のもとで生産が再開されるとマルクスは書いています。だが 過剰な資本ⅡがⅠに移れなかった時は 恐慌後生産再開とはならず、不況が続くことになります。

 以上の恐慌・破局の論理的メカニズムの理解で重要なことは 過剰生産に陥り恐慌が爆発しそうになったとき追加貨幣を持っていれば恐慌の爆発は先延ばしできるということです。だから74、5年恐慌後は赤字国債の発行による通貨の投入や金融緩和が繰り返し行われてきたのです。金本位制の時代は通貨の増発は金量によって制限されていましたが 71年のニクソンショックによってこの制限はなくなりました。それゆえ74、5年から08年リーマンショックまで実に30年間も危機の爆発は先延ばしされたのです(これが運動が停滞した根本的根拠です)。だが 黒田日銀による異次元の金融緩和はなんら功を奏さず いま再び第2のリーマンショックが起ころうとしています。民衆をたぶらかすために掲げた安倍の成長戦略は なに一つ実現せず、誰にも判る形で破産しました。ウソの破産にはより大きなウソをとばかりに 安倍はGDPを600兆円にと大ボラを吹いています。もし資本家が安倍の大ボラを信じて新たに100兆円の生産拡大をしたら過剰生産の上に更なる過剰がもたらされ 明日にも第2のリーマンショックが現実化します。いまは 過剰生産(力)・過剰資本の危機を政府が国債を発行して買い取っているようなものなので 経済危機は倒産の連鎖・膨大な失業とともに、国債の暴落として、またハイパーインフレとして爆発します。


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント